「あの……」 と突然、二人の後ろから呼び掛けられて、深緋の靄が朝熊から離れた。朝熊はホッとした表情で、祖谷は笑顔のままで振り向いた。 「あ、やっぱり、この間、会長と一緒にいらした方ですわね。高等部のカフェテラスで」 二人に声を掛けたのは、柚木野遙であった。祖谷が立ち上がる。 「ごめんなさい、お邪魔でしたわね」 祖谷の視線に敵意のようなものを感じて、遙は慌てて謝った。 「いいえ、話はもう終わりましたから。どうです、ご一緒しませんか」 朝熊が祖谷を無視して、遙に椅子に腰掛けさせた。 「今度は、もっと静かなところでお会いしたいですわね」 祖谷が朝熊の肩に少し触れてそう言った。そして去っていく。それを見送るでもなく、朝熊は遙の前の椅子に座った。 「本当に、よろしかったのですか。私、お二人の邪魔をしてしまったのでしょう」 遙がすまなそうにそう言うのに、朝熊は首を振った。 「いいえ、いいところで邪魔をしてくださって助かりました。ナンパされていたんですけど、私の趣味ではなかったもので……」 真面目な口調でそう言う朝熊を、遙は思わず見つめて明るく笑った。 「まあ。と言うことは、私は、さしずめ救世主でしたのね」 そう言って、遙はまた明るく笑った。 「ええ、そうなんですよ」 と朝熊は遙に合わせて笑っていたが、心の中では、本当に助かった、と思っていた。 「ここの学生ではありませんよね。あなたのような方がいらしたら、短大部の方たちの口の端にのぼらないわけがありませんものね。あら、ごめんなさい。私、柚木野遙と申します。大学部3回生ですわ。専門は、これですの」 そう言って遙は、持っていた本を差し出した。2冊あって題名から察するに、言語学と神学の本であった。 「言語学ですか?」 朝熊の言葉に、遙は頷いて、 「ええ、古代からの言葉の移り変わり、そして、日本語の源泉について研究していますわ。こちらのほうは、まるっきり趣味、というわけではありませんけど、でも、似たようなものでしょうか」 とあとの言葉は、神学の本を指さして言った。 「会長と一緒におられたのは、お知り合いなのですよね」 朝熊は遙に本を返しておいて、少し首を傾げて頷いた。 「知り合い、と言っても間違いではないでしょうけど……。私は、朝熊といいます」 遙は朝霞との関係をそれ以上追求しようとはしなかった。 「この間の彼女は恋人なのでしょう。とても綺麗な方ですわね」 遙の言葉に、朝熊はあの夜の倭の柔らかな唇の感触を思い出していた。だから、黙って微笑んだ。それを肯定と受け取って、遙はまたにっこりと笑った。 「柚木野先輩」 と声がして、二人はそちらを向いた。 「あ、清華さん」 と言って遥が朝熊に向き直り、 「桜沢清華さん、朝霞会長のクラスメートですわ。そろそろ、時間ね。私、学園のオーケストラに所属していますの。あのホールで、バイトのない日はこの時間に練習していますわ。お暇な時に聴きにいらしてください。フルートを吹いていますから。清華さんはチェロを弾いています」 そう言って遙は立ち上がった。朝熊も立ち上がって、 「朝霞の友人の朝熊です」 と言った。清華は、 「桜沢清華と申します。よろしく」 とにっこりと笑った。朝熊は遥に向かって、 「近いうちに拝聴させていただきましょう。今日はありがとうございました」 と手を差し延べた。遙はその礼の本当の意味を知らずに、朝熊と握手した。 「会長にお会いになるのでしたら、私が腕を磨いていることをお知らせください。朝熊さんも、会長とご一緒になさいますか?」 遙の問いに、朝熊は肩を竦めた。 「それは、ご遠慮しておきましょう。彼にはきっと伝えますよ」 そう言って、遙と清華が去っていくのを見送った。そして、朝熊もカフェテリアをあとにした。
この日は、ほとんどの人が待ち伏せをされ、または、待ち伏せをしていた。
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