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 倭と朝熊の姿は、陬生学園の中にあった。
 倭はあれから、表面上はいつもの状態であった。だが、もし頓原に出会ったとしたら、その面がどのように変わるのかは、倭自身にも判っていなかった。朝熊はそのことについて何も言わなかった。あの夜の出来事について……。朝熊も倭がもし、もう一度それを求めたら、きっとその後の行動には自信が持てなかった。きっと理性の箍が外れるだろう。だから、お互いにそのことに触れなかったのだ。
 倭の目は崇を追っていた。今日も高等部の校舎から、弓道場へ向かう崇であった。それをジッと倭の目が追う。その目がふい、と他の方向へ向いた。そこは高等部の最上階であった。その部屋が高等部の学生会室であることは、倭は知らない。だが、そこから覗いている人物の一人については、知っていた。朝霞であった。そして、もう一人は倭は知らないが、麻績であった。倭の目は麻績に釘付けであった。
(彼は、何者だ?)
 倭の目には、麻績を包む水浅葱の靄が見えていた。つまり、麻績の《気》であった。
 倭には、生物に発生する《気》を見ることが出来る。そして、その《気》が《力》と結びつくことも判っていた。そして今では《気》を見ることによって、どの程度の《力》を持っているのかも判るようになっていた。だから以前、朝霞に会った時に、その《気》の変化が気になったし、崇に《力》がないことも判っていた。
 倭が不思議に思ったのは、麻績に《力》が急に現れたことであった。倭は名前までは知らないが、麻績を前に見たことがあった。たまたま、朝霞と一緒であったから、目についたのであって、麻績一人であれば見過ごしていただろう。だが、その時の麻績には、僅かなりとも《力》を持っているような《気》は現れていなかった。だが、今の麻績にはそれがあった。しかも大きかった。
「朝熊」
 と倭が朝熊に目を向けた。朝熊がハッとしたように倭のほうを向いた。
「どうかしたのか」
 その様子に倭が不審に思って言った。朝熊は首を振って、
「ちょっと、ぼうっとしていただけだ」
 と言った。ふうん、と倭は朝熊を見ていたが、
「朝熊、いきなり《力》が出てくることはあり得るよな」
 と言った。朝熊は頷く。ふむ、と倭は頷いて朝熊から目を逸らした。
「誰かいたのか」
 朝熊が聞く。
「朝霞と一緒にいる」
 と倭が指を指した。朝熊が向いたところで、麻績と朝霞が部屋の中のほうへ入っていったが、その姿を目に映すことは出来た。
「あれは……」
 と朝熊は記憶の茂みを探った。そして、一つの名前と一致した。
「霧島麻績だ。確か、高等部学生会副会長だったな。多分、あの部屋が高等部の学生会室なんだろう。彼に急に《力》が現れたのか」
 倭は頷く。
「この前に目にした時は、僅かな《力》さえなかったんだ。それが今ではある。それもかなりの《力》だ」
 朝熊は倭に目を戻した。
「普通の人間たちに《力》が現れることがないわけではないが、もしかすると、彼は戸隠の一族かもしれないな。陬生学園にいることも、朝霞の側にいることも、そのためかもしれない。何故、急に《力》が現れたのかは判らないが。朝霞に聞いてみるしかないかな」
「そうだな」
 倭はそう言って、腕を組んだ。今日の倭は、また高等部の制服を着ていた。青藍のリボンが、頭の上で揺れていた。朝熊は相変わらずの黒を基調とした恰好であった。
「それより、気づいているか?」
 倭の口調は、何気なかったが緊張味を帯びていた。朝熊が目で合図した。
「倭が気づくものを、私が気づかぬわけはない」
 こちらは茶化すような口調で言う。それを倭が目で怒って、
「奈半利だろうか?」
 と呟く。朝熊が頬杖を突いて、
「そうではないか。伊勢、出雲、戸隠のどれでもないとすれば、残りの一つだろう」
 と言った。倭の視線は朝熊に向いていたが、倭が指している人物は彼女の後ろにいた。とはいえ、何百メートルも後ろではあったが。朝熊からは僅かに視線をずらせばよく見える場所にいた。校庭のプラタナスの木に背をもたれて、彼女は立っていた。臙脂の服を着ている彼女は、肩まで延ばした黒髪を風に揺らしていた。倭がさきほど視線を動かした時に目についたのだ。彼女の廻りに漂う深緋の靄を。
「布城崇を見ていたな」
 倭がそう呟いて、
「なあ、朝熊、私たちはどうすればいいと思う。伊勢として、私たちがしなければならないことは、布城崇を伊勢に連れていくことか。それとも、このままずっと見つめ続けることか」
 と続けた。朝熊は頬杖を突いたままで、
「巫覡は何と言った? 透明の方は目覚められることはないと言っていたはず。だから、伊勢に連れていっても、何の役にも立たぬ。彼が目覚めればそれをすればよいが、目覚めないかぎり、私たちがすることは、ただ、彼を守り続けることだ」
 と言った。
「だったら朝熊、このままずっとこんな状態を続けなければならないのか。布城崇が目覚めなければ、彼が死ぬまで守り続けるのか」
「まあ、そういうことだな」
 一瞬、倭は考え込んだ。
「朝熊は、それで平気なのか」
 倭の言葉に朝熊は少し笑って何も言わなかった。
(倭と一緒ならば、私はどんなことでも出来る。そして私はきっと彼が目覚めないことを願っているのだ)
 朝熊の言葉は、口からは出なかった。そして倭には朝熊のその心が読めなかった。
「いっそ、どうにかして、彼を目覚めさせることが出来ないものか……」
 倭は本気でそれを考えていた。朝熊がすっと立ち上がる。倭が何か言う前に、
「倭、私は彼女を尾けてみよう。お前は適当に時間を過ごせ。ただし、目立たないようにな、この前のように」
 と朝熊は言って、臙脂の服を着た女を尾け始めた。倭はそれを見送って、
(さて、どうしたものか)
 と考えていた。
 しかし、朝熊の尾行は長くは続かなかった。女は大学部のほうへ歩き続け、そして、大学部のカフェテラスの一つのテーブルについた。朝熊は少し離れたテーブルにつくと、紅茶を注文した。カフェテラスにはポツポツと客が入っており、それほど目立つわけではないはずだが、それでも、朝熊の黒を基調とした服装とその顔立ちは他の客の目を引いた。倭が一緒ならば、とても目立つどころの話ではなかったが……。
 そして、臙脂の服の女も目立つ存在ではあった。肩までのストレートの黒髪に、臙脂のチャイナドレスを着て、長いスリットは男性客の目を引いていた。彼女は運ばれてきたコーヒーを、ブラックのまま口に運んだ。その洗練された動作に、周囲の視線が羨望を混ぜた。誰を待つでもないその姿に、独り者の男たちが近づこうとして、近づき兼ねていた。
 朝熊はもちろん、彼女に視線を向けていたが、ほとんどの男性が彼女を見ていたため、それは奇怪な仕種ではなかった。だから彼女が朝熊に視線を向けた時、面には現さなかったがたじろいではいたものの、まずいとは思わなかった。しかし、彼女は朝熊に向かって微笑むと立ち上がった。そして朝熊に近づく。他の男たちは、彼女の目的が朝熊だと判ると、しかたないなと納得して、彼女から視線を外した。
「お隣、よろしいかしら」
 その容姿からは、きっとこんな声が似合うだろう、そのままの声が聞こえてきた。朝熊は黙って、前の席に促した。だが彼女は、朝熊の隣の席に座った。そして、朝熊をジッと見つめる。朝熊は無言で、彼女から視線を外した。下に視線を向ければ、否応なく深いスリットから白い肌が目に映る。朝熊はそれに惑わされないように、上のほうを向いていた。
「私は祖谷という名前ですの。あなたの名前を教えてくださるかしら」
 彼女はそう言って優雅に足を組んだ。そして、その左手が吸いつくように、朝熊の頬から顎にかけて滑った。そのねっとりとした仕種に、背中がゾクリとした朝熊は、椅子ごと祖谷から離れると、彼女のほうを向いた。祖谷はにっこりと笑った。その美しい笑みの中に、爬虫類的なものを感じて、朝熊は再びゾクッとした。
「何故、お逃げになるのですか」
 祖谷の左手は、朝熊の右腕をそっと掴んでいた。そっとでしかないのに、朝熊には、逃げられないほどの力で掴まれているような気がした。
「奈半利……」
 朝熊が呻くように呟いていた。祖谷の笑みがまた拡がる。
「そう、私は奈半利の一族の一人。あなたは、誰?」
 朝熊にも見える、祖谷の深緋の靄が、自分を包み込もうとしていることに気づいた。

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