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檮原が、霧島家を再訪したのは、ちょうど一週間後であった。璃寛は書斎で檮原を迎え、麻績は表で弟子の稽古を見ていた。
「璃寛、では返事を聞こうか。聞かずとも、良い返事であろうと思うがな」
檮原は璃寛を見つめて言う。璃寛は一度目を閉じて開くと、言葉を発した。
「霧島家としては、このままの状態を続けたいと思っております。檮原様、私は弱いのです。このままのんびりと、時を過ごしたいと思っているのです。そして、麻績にもそれをさせたいのです。檮原様、判ってくださいませ」
檮原の白髪が揺れた。
「璃寛、私はそのような答を聞きにきたわけではない」
璃寛の瞳が微妙に揺れている。
「私には、これ以外の答を言うことは出来ません」
「璃寛」
檮原の声には、怒りではなく、湿った哀しみが漂っていた。璃寛は、檮原を見つめて首を振る。
「もう一日だけ待つ」
そう言って、檮原は立ち上がった。璃寛は座ったまま、檮原を見上げる。
「檮原様、そのお心遣いは大変嬉しいと思います。しかし、それは私には必要ありません。麻績にはもはや、言うことはありませんから。何も麻績には話していませんが、麻績にはすべてが判るはずですから」
檮原の表情が苦悶に変わる。
檮原は璃寛を本当の弟のように思っていたのだ。事実、幼い頃からの付き合いであり、璃寛が檮原を兄と呼んだ時期もあった。檮原にとって、璃寛を説得することには、二重の意味があったのだ。一族の思いと、己の思いと。この二つが矛盾したとすれば、檮原は、己の思いを捨てなければならない。その己の思いを捨てたくなかったから、檮原は一週間待ったのだ。
「璃寛、この私にこれ以上ないほどの哀しい思いをさせるのか」
璃寛が首を振る。
「私もあなたにそう思わせなければならないことを、残念に思います。ですが、私は戸隠でも奈半利でもないただの霧島璃寛として生きようと思いますし、あなたは奈半利の檮原として生きなければならないでしょう。私は今でも、あなたのことを、兄として慕いたいと思っております。だから、あなたの手に掛かるのであれば、いっそ本望だと思っているのですよ」
璃寛がそう言って微笑んだ。檮原は一つ息を落とした。
「それは、その言葉は、あまりにも残酷ではないか。お前は……」
「霧島家は戸隠の一族であり、そしてかつ、奈半利の一族でもあります。そして、あなたは奈半利の一族……。私は戸隠のように生きたいと思っておりましたし、あなたは奈半利として生きているのです。私たちはもはや、昔のように同じ気持ちを持ち合わせてはいないのです。檮原様、私は、一週間前から覚悟が出来ておりました。あなたが、この一週間の間にいついらしても、その時が来ても迷わないように。ですから、あなたが迷うことはないのです。私が、あなたを兄さんと呼んだ頃にはもう戻れません。そして、戻ってはいけないのです。檮原様、魚梁瀬様のご意志の通りに、あなたは奈半利として生き続けてください」
璃寛の微笑みが、檮原の心を深くえぐっていた。そして、その淡々とした言葉も。檮原にも判っていた。璃寛の言うことは正しいのだ。昔の檮原と璃寛には戻れない。たとえ、時間を逆に廻すことが出来たとしても。それは、もう不可能なのだ。
檮原の天に向けた両手のひらの上に、灰赤の球体が乗っていた。それを、璃寛のほうに放る。その灰赤の球体が璃寛を包む。璃寛の口元が小さく動いて、言葉の形を作った。
『さようなら』
と。
やがて、檮原の手のひらに吸い込まれるように灰赤の球体は消えた。麻績が書斎の扉を開けたのは、その時であった。麻績の目に映ったのは、座っている璃寛と、その前に立っている檮原の姿であった。そしてその時の麻績には、何が起こったのかがもう判っていた。
「お帰り願えますか、檮原様」
麻績はそう言って、ジッと檮原を見つめた。檮原は気後れがして、何故か素直に従ってしまった。己の役目を忘れて。
麻績は檮原を見送ると、書斎に戻った。そして、璃寛の側に座る。
「お父様、僕は、まだあなたにお教え願うことがたくさんありましたのに……。なのに、何故、そのように去ってしまわれたのですか。直接、僕に何も告げずに……」
麻績の肩が打ち震えていた。璃寛を抱き締めたまま、そのまま声を殺して泣いていた。
今の麻績には、すべてを理解することが出来た。璃寛が死んだと同時に、彼は《力》を目覚めさせることが出来たのだ。自分の素性と、自分の《力》と。それを知るには、父親の死が必要であったのだ。それを知ったとして、麻績は嬉しいわけではなかった。知らないほうが良かったのに……。
霧島家はこうもりのように、戸隠の中では戸隠のように、奈半利の中では、奈半利のように、どっちつかずの位置を保ち続けていたのだ。ただ、戸隠では奈半利のことを知らず、奈半利では、戸隠であることを知っていたという違いはあったが。
麻績にとっては、いまさらお前は奈半利の一族でもあるのだ、と言われても、そうですか、と納得することは出来なかった。当たり前である。麻績は戸隠の中で、朝霞の側で生きることに、生き甲斐を見いだしていたのだから。崇が現れた今でも、麻績は少なくとも、その気持ちを捨てようとは思っていなかった。
とりあえずは、今の麻績には、璃寛の葬式を行う仕事が現れた。
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