頓原に会った朝熊だが、倭よりは先に戻っていた。ぼーっとした表情の倭が部屋に入ってくるのを認めて、朝熊は台所に向かった。カチャカチャと音が響いて、やがて、倭の目の前にカップが差し出された。
「新しい紅茶だ。トワイニング社のプリンスオブウェールズ」
 倭は黙ってカップを受け取ると、一気に飲み干した。そのままカップを持ち続けていた倭は、目の前に立ったままの朝熊を見上げた。
「朝熊」
「うん?」
 朝熊の、倭にだけ向けられる笑顔を見つめて、
「朝熊、キスして」
 と倭は言った。朝熊は表情を変えなかった。そして、何も言わずに何も聞かずに、持っていたカップをテーブルに置くと、両手で倭の頬を挟んだ。倭は目を閉じる。その唇にそっと朝熊のそれが重なる。倭の体が僅かに震えていた。
「朝熊、ごめんね」
 倭は朝熊のほうを見もせずに、そう言って寝室に入っていった。
 朝熊はそのまま、そこに立っていた。抱き締めてしまいそうだった。そして、そのまま自分のものにしてしまいそうであった。辛うじて、唇が一瞬触れるだけですんだのは、倭がさっさと朝熊の前から消えたからだ。そのまま側にいられたとしたら、朝熊は自分の理性がもろくも崩れてしまうことを判っていた。
 倭が『ごめんね』と言ったのは、朝熊の気持ちを察したからではないのは判っている。朝熊の倭に対する思いを、朝熊は表に出さないし、倭はそんな思いがあることすら、今は知らないのだ。
(これ以上、踏み込んではいけないのだ。私は倭の守り人なのだから)
 それを判っていながら、朝熊は倭に対する思いを募らせるだけであった。


←戻る続く→