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「倭おねーさん」
と倭は声をかけられて、ハッと振り向いた。朝熊はいない。倭一人であった。朝熊が倭の側を離れることは、ほとんどない。例外としては、倭が朝熊の目を盗むか、あるいは、朝熊がその必要を認めない時か、その二つしかなかった。そしてこの時は、朝熊がその必要を認めない時のことであった。倭は、星を見るために少しの間外に出たのであって、朝熊はそれならば必要ないだろうと判断したのであった。
「頓原……」
倭に声をかけたのは、この間会った頓原という少年であった。今日の恰好もGパンにGジャン、色はこの間と違うが、という程度であった。頓原は嬉しそうに笑った。
「倭おねーさん、俺の名前、覚えててくれたんだ。嬉しーなー。それって、俺に気があるってこと?」
倭は頓原をきつい眼差しで睨んだ。
「何を言ってるんだ。何故、私がお前に気があると思うんだ。冗談にしても酷過ぎる」
倭はそう言って立ち去ろうとしたが、ふと、頓原に向き直った。
「この間、お前が話したことは、すべて真実なのか」
倭が真面目な顔になって、頓原に聞きただした。頓原が惚けた顔で倭を見つめる。
「真実だと、思った?」
倭はその口調が、疑問符なのか、揶揄しているのか、判断がすぐにはつかなかった。頓原がにこにこ笑って、
「俺って正直過ぎて、みんなに煙たがられているほどさ。頓原という名前も、17歳ってことも、紅顔の美少年ということも、恋人募集中ということも、みんな、事実無根、あ、間違い、真実一路でーす」
と言った。
「違う、そのことではなくて……」
と倭が言いかけるのに、頓原がハタと手を打って、
「あ、そうか、おねーさんが俺の好みってことだね。もちろん、嘘なわけないじゃん」
と言った。倭は身体中から力が抜けそうになるのを必死に抑えて、きっとこんな奴と毎日過ごしている人は身が持たない、その苦労を忍びながら、
「そのことではない。お前が出雲五真将の一人、ということだ」
と言った。
「何故?」
頓原が顔の表情を変えないまま、その問いを発した。倭が同じ言葉を吐く。
「何故?」
頓原はブランコに座った。というのは、そこが公園であったからであるが。
頓原はいきなり真面目な顔になった。
「遙か昔、神々のうち三神が、三つの一族の王祖にその《力》の一部を与えた。それから三人の王祖は、それぞれの土地で王国を形成した。三つの王国は、ほとんどお互いの行き来をしなかったため、他の二つの王国の実情を知らないと言ってもいい。僅かばかりに入ってくる情報をもとに、お互いを勝手にそうだろうと判断することしかしていない。それが、三つの王国の今の実情ではないか。我々は知ろうとしないかぎり、知ることが出来ないのだ。つまり言い換えれば、知ろうと思えば、いくらでも情報は公開されている、ということでもある。置き換えて考えればね」
倭は頓原の言葉に驚いて、彼を見つめることしか出来なかった。あの口調で話す頓原と今の言葉を吐いた頓原と、本当に同一人物なのか。倭の驚いた顔を、頓原は面白そうな表情に変えて見た。
「俺はその必要を感じなかったから、今まで他の一族のことを調べもしなかったのさ。おねーさんたちのことは、調べればホント簡単に判ったもんね」
ギョッと倭の顔色が変わる。頓原はクスリと笑った。
「倭おねーさん。別に俺は、おねーさんたちに敵対するつもりはないんだけどな。ねえ、伊勢の倭姫」
倭は一瞬、息を止めたが、すぐにその表情を笑いに変えた。
「なるほど。お前が出雲五真将の一人ということは、本当のことらしいな」
頓原は何も言わずに表情も変えなかった。
「そして、出雲五真将の中でも、一、二の《力》の持ち主だということも、本当のことだろうな。出雲五真将が、みな若いという話も本当か」
倭が頓原の隣のブランコに座った。
「出雲五真将のこと、知りたい?」
え、と倭が頓原のほうを見る。
「教えてあげよーか、倭おねーさん」
倭の頭の中で、目まぐるしくいろいろな計算が行われた。出雲五真将のことを知っておいたほうが、これから先に何らかのプラスになるのは確かではないか。ただ、何の見返りもなしに、頓原が教えてくれるのだろうか……。
「教えてくれるのか、私に」
倭に笑いかけて、頓原は頷いた。
「倭おねーさんにだけ、教えてあげるよ。但し、俺の願いを一つだけ叶えてくれないかなあ。あ、別にたいしたことじゃないよ。おねーさんが、俺の頬にキスをしてくれれば。どうかな、この条件では」
倭の片頬に少し気色ばみが浮かんだ。頓原は表情を変えもしない。倭が眉を少しひそめて、
「その条件で、私が出雲五真将について聞くことを、何でも答えてくれる、ということか」
と聞いた。頓原が人懐っこそうに笑って、
「俺に答えられることなら、すべてね」
と言った。倭はなおも疑わしそうに頓原を見つめた。頓原は、約束を守るだろうか。まだ二度しか会っていない頓原を、倭は信じるに足る人物かどうか、判断がつかなかった。
「倭おねーさん、俺は、約束はきっちりと守るよ。おねーさんにだけは、嘘をつきたくないからね。だって、好きな人には嫌われたくないじゃん」
頓原は冗談めいた口調と、真面目な口調の入り交じった台詞を吐く。倭は、フッと息を落とすと、
「その条件を認めよう。但し、お前の話を聞いてから、その価値があるかどうかによって、という条件をこちらから提示したい。それが認められないのなら、この話はなかったことにしよう」
と言った。頓原が腕を組んだ。しかし、
「いいよ」
と即答した。倭は少し驚いた。少なくとも、即答はあり得ないだろうと思っていたからだ。しかしそれによって、倭の頓原に対する見方が変わるわけではなかった。
頓原はブランコを大きく漕ぎだした。
「じゃあ、質問をどうぞ」
行ったり来たりの声が、倭を促す。倭はブランコを揺らさないまま、
「出雲五真将について、基本的なことを」
と言う。
「今の?」
「……今のだ」
倭は一瞬迷ったが、そう言った。
「出雲五真将は、その名の通り五人で成立している。それの由来は、今は詳しく話せないけど、最初にたまたま、《力》のある者が五人いただけのことらしいよ。だから、それからずっと、出雲五真将は、必ず五人揃えなければならないのさ。今の五真将の中では、その名を名乗って恥ずかしくない者は、俺と仁多の二人だけだろう。他の三人は数合わせでしかない。俺は紹介済だから割愛するけど、一番年上で27歳の仁多、順に潜戸24歳、船通21歳、斐川19歳で五人」
「五真将が数合わせで五人である、ということは、他の三人の《力》はほとんどない、と言っていいのか」
「少なくとも、今のところはね」
そう呟いて、頓原はブランコを大きく揺らしながら頷いた。
「出雲の《力》とはどんなものだ」
「縁結び」
頓原がくそ真面目な顔でそう言う。倭がしばらく理由が判らずに頓原を見つめ続けた。
「出雲の祭神は大国主尊で、表向きには、《縁結びの神》として知られている」
二人の後ろ、ベンチのところからその声は聞こえてきた。頓原がハッと振り向く。倭はその声の正体を知っていたので、あえて振り向きはしなかった。
「倭おねーさんの忠実なお守りですね」
呆れたような口調なのは、わざとなのか、本心なのか。ともかくも、頓原はそう言って朝熊を見つめていた。朝熊はベンチに座ると、
「倭、その男と逢い引きだと、私にそう断っておいて欲しかったな」
と言った。これも、冗談なのか、本気なのか。倭がキッと朝熊のほうを向いた。
「朝熊」
と倭が言いかけるのに、朝熊は頓原のほうに視線を向けて、
「出雲五真将という地位にある者が、伊勢の一族に何用だ。私たちに余計なちょっかいを出さないで欲しいな」
と言った。頓原が肩を竦めた。
「それは違うよ。俺がちょっかいを出したいのは、倭おねーさんにだけ。あなたとはお付き合いをしたいとは思わないもんね。まあったく、せっかく倭おねーさんだけだから声をかけたのに、忠実過ぎるお守りがいると、デートもままならないよね。どうする、倭おねーさん、俺はおねーさんにだけしか話したくないし、この話は今度にしようか。俺としては、またおねーさんに会う口実が出来て嬉しいけど?」
倭が目尻を少し上げた。朝熊を見ていた視線を頓原に向けると、
「朝熊は私自身も同然。気にしないで話せ」
と促した。頓原は首を振った。
「駄目だよ。いくら朝熊おにーさんが倭おねーさんのお守りで、影のような存在でも、俺には見えるもの」
「どっちにしても、私があとで朝熊に話せば同じことだ」
「違うね」
「どう違うんだ」
このままでは二人とも譲らないまま、時間が経ちそうなので、朝熊が割って入った。
「倭、ここは私が譲ろう。別にお前に害を与える気はなさそうだし、まあ、早くすませて戻ってこい」
そう言って、朝熊はさっさと公園から出ていった。
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