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 朝熊が始めて伊勢の王国から出たのは、19歳の時であった。それまで、一歩も伊勢から出たことのない朝熊だったが、伊勢の一族の中では、生涯伊勢の王国から出ない者が多いことを考えると、ずいぶんと早いことであったと言えないこともない。
 朝熊がその少年に出会ったのは、戸隠の王国の近くであった。戸隠の王国という言い方が正しければ、ということであるが。戸隠の王国の発祥の地の近く、という言い方が一番正しいかもしれない。朝熊はそこに迷い込んだわけではない。それより前に、朝熊は出雲の王国にも訪れていた。
 遙か昔に、三人の神が三人の王祖にその《力》を分け与えてから、どのぐらいの時が流れているのだろう。伊勢、出雲、戸隠とその場所は離れていても、三つの一族の立場は対等であり、そして元は一緒である、という考え方を貫いていた。三人の神の地位には上下があるが、三つの一族には、その地位は反映しないということになっていた。
 とはいえ、遙かに時は流れてきた。その間、三つの一族の交流が全くなかったとは言えない。だが、その考えをずっと持ち続けてきたとも言えない。他の一族のことを、正しく認識している者は、ごく僅かだったのだ。
 だから、朝熊が伊勢の王国を始めて出て、足を向けたのが出雲と戸隠であるということは、正しい判断であったと言えないこともない。ともかくも、出雲を訪れて、しばらく時を過ごした朝熊は、戸隠に足を向けたのであった。
 鬼無里は、戸隠の隣に位置していた。その名の由来は、天智天皇の御代、鬼をすべて追い出したことからきているという。朝熊はそこを通って、戸隠に向かっていた。森の中を歩いていた朝熊は、風の鳴る音に足を止めた。別にそれに向かって道を逸れたのは、何か意味があったことではない。たまたま気が向いた、という程度のことであった。そして、そこで少年に出会ったのだ。
 その時、朝霞は10歳であった。朝熊は朝霞が美少年であることや、彼が泣いていることさえ気づかなかった。朝霞の回り、朝霞を中心に半径五メートルの円の中は、さしずめ暴風圏内であった。朝熊はその光景を目の当たりに見て、ただ呆然と立ち尽くした。そして、暴風圏が徐々に拡がっていることにも気づかなかった。朝熊の手前1メートルほどにそれが近づいて、ようやく朝熊は気づいた。避けようとする朝熊の横を、一人の老人がスタスタと朝霞に近づいた。その後の出来事は、朝熊にとって白昼夢に等しかった。
 吹き飛ばされそうになる老人は、見た目よりしっかりとした足取りで朝霞に近づくと、その体を抱き締めた。そして、老人の顔が朝霞の首筋に被さった。はらりと、いつの間にか朝霞のシャツが地上に舞い降りる。朝熊は何が行われているのかその時判ったが、そこから立ち去ることが出来なかった。目の前で全裸の朝霞と半裸の老人がうごめく。朝霞の目が自分に向いていることに気づいて、朝熊はハッと身動ぎした。そして始めて、朝霞の美貌と彼の涙に気づいた。うかつにもその後になって、暴風がおさまりつつあるのに気づいたのだった。それが二人の行為に関係していると、すぐには結びつかなかった朝熊だが、自分が覗きをしていることと、そして朝霞の回りの暴風が、《力》であることには気がついた。朝熊はまず恥じ、とにかくこの場を立ち去ろうと思った。その背を向けた朝熊を立ち止まらせたのは、朝霞の一言であった。
「生かして帰さないよ」
 え、と振り向く朝熊の目の前に、朝霞の顔が迫った。驚きよりも、その美貌を再認識する自分を、何故か客観的に判断していた。その後に朝霞が全裸なのに気づき、僅かに顔を赤らめる。少年の幼さはあるが、よくもこれだけ美の女神に愛されたものだ、と言いたいほどであった。二人が口を開く前に、朝霞の背に彼の服が投げられた。
「朝霞、お客人に失礼な口をきくものではない」
 朝霞を全裸にした本人は、すでに服装を整えて立っている。朝霞はふてくされながらも、さっさと服を着た。
「さきほど、朝霞が言ったことは冗談じゃ。今の朝霞にはその《力》はなく、わしには元からそんな《力》はない。戸隠に訪れにいらしたのであろう、伊勢の方」
 朝熊はギョッと老人に視線を向けた。朝熊の驚いた顔に、老人は面白そうに笑いを浮かべた。
「立ち話も何じゃな。我が館にご招待しよう」
 そして、朝熊は老人の誘いに応じて、戸隠の王国に足を踏み入れたのだった。
 老人の自己紹介から話は始まった。部屋の中は、老人と朝熊、朝霞の三人だけであった。
「わしの名は、陬生克雅。知っておるかもしれぬが、陬生財閥の会長じゃ。これは、三男坊の朝霞、10歳。ま、息子といっても血縁上でも戸籍上でもないがな。そして、わしが戸隠の、まあ、他の一族の言うところの王と言えるかな」
 老人、克雅の話は少なからず、朝熊を驚かせた。伊勢の中でも、世俗のことを知ることは出来た。そして伊勢を出てからは、精力的に朝熊はより多くのことを知ろうとしてきた。陬生財閥が、どれほどの力を持っているのか、それを知っていた朝熊であった。その会長と戸隠の王が、同一人物だったとは。戸隠の一族は、伊勢や出雲と違って、どのような生き方をしているのだろう、と朝熊は興味を持った。そして克雅は、朝熊の知りたいことを教えてくれたのだ。
 朝霞はその間、無言であった。克雅は朝霞のことは、最初に言ったこと以外は喋らなかったし、朝熊も聞かなかった。朝熊が朝霞のことを知ったのは、朝霞と二人きりになってからであった。
「生きて帰さないと言ったのは、冗談じゃなかった」
 二人きりになっての第一声は、朝霞のその言葉であった。
「でも、その時にはもう遅かった。でも、あと一月後は判らないよ」
 謎めいた言葉を朝霞は発した。
「あなたにこのことを話すのは、さっきのことを見られたからさ。僕にとっての最大の屈辱の場面を見られたからね。これは取り引きだよ」
「取り引きって、別に私は誰に話すこともしないつもりだ。私は朝霞殿を敵とするつもりはないのだから」
 朝霞が首を振る。
「確かに、僕も朝熊殿を敵にするつもりはないよ。少なくとも今のところはね。でもね、このままでは、僕の気持ちがおさまらないのさ。僕が好きでさっきみたいなことをしていると、二度と会わないかもしれない人にでも思われたくないんだ」
 朝霞の言い分に、朝熊は納得して頷いた。確かに二度と会わないだろうけれど、持っておく札は多いほうがいい。それが、倭のためだと思った。この時の朝熊には、将来倭とともに行動することによって何が起こるのか、まだ知るべくもない。ただ生涯、倭を守り続けることを自分の使命と認めている朝熊は、何につけても知識を持っておくことが重要だと考えていた。
「今の僕にはほとんど《力》がない。でもさっきは違った、それには気づいたよね。僕はあるサイクルによって、《力》が無限大に増大するんだ。この惑星など破壊尽くすほどに……。そして、僕は自分の《力》を制御することが出来ない。そのために、克雅様が必要なんだ。克雅様の《力》は、中和能力、とでもいうものだと思う。そのこと自体は、脅威でも何でもない。だが、僕以外の《力》を持っている者にその能力を使われると、おそらく彼の《力》は消滅するよ。二度と現れることなく。それほどまでに、克雅様の《力》はあるんだ。あなたが自分の《力》を持ち続けたいと思っているのなら、克雅様に近づかないことだね」
 朝霞の最後の言葉には、明らかに敵意のようなものを含んでいた。
「朝霞殿、それほどまでに重要なことを私に話してくれたことは、ありがたい、と言うより、恐ろしくもあるのだが、あなたは私が気に入らないのだろうか」
 二人は見つめ合っていた。10歳の朝霞と19歳の朝熊。9歳の年の差があれど、ずっと伊勢の中で暮らしていた朝熊とは、人生経験の差があり過ぎた。それに、伊勢の一族は、戸隠の一族と違って、その王国の中では守られ続ける。それを朝熊はまだ肌で感じてはいなかった。
 朝霞がしかし、笑いを浮かべた。年長者のそういうところを見て取ったのだ。
「克雅様の話でもあったけど、戸隠は伊勢や出雲と同じだけ、その王国の歴史がある。でも、その歴史は三者三様なのさ。伊勢や出雲は、それぞれの神から貰った《力》を大事にすべく、王国を結界の中に作った。他者が入ってこれないように、そして、一族がみだりに外に出ないように。その結果、あなた方は《力》を持ち続けることが出来た。ま、他の結果のことは、今は関係ないね。戸隠は、あなた方と同じ道を歩くことをしなかった。戸隠の王祖は、一族を結界の中に閉じ込めることをしなかったからね。今では戸隠の王国という名前は存在するが、戸隠の王国という場所は実在しないと言っても、それは正しいことだろうね。克雅様も王である、と言ったけど、それは全くの嘘ではないにしても、本当のことでもない。陬生財閥の会長だから、陬生財閥が戸隠と深く関わっているから、都合上そういうことにしているだけのことさ。一族はある程度は固まっているけど、この発祥の地である戸隠に、一度も足を踏み入れたことのない者は多いわけ。僕自身も戸隠で生まれたけど、住んでいるのはここではない。僕が今、ここにいるのは、たまたま旅行中であって、戸隠に住んでいる一族は、ほとんどいないと言えるわけ。克雅様にしても、この屋敷に戻るのは、年に一、二度ぐらいにしかすぎないのだから。あなたはその点でも、運がいいと言えるのさ。僕たちに会えたんだから」
 朝霞の指先が、朝熊の額に触れる。正しくは額の勾玉に。半濁の緑色。朝熊の勾玉は常にその色であった。それ以外の勾玉の色に朝熊はしたことがない。出来ないのか、しないのか、それは誰も知らなかった。
「今は僕に《力》がないから見えないけど、ここには勾玉をつけているんだろ。それが伊勢の一族の印、というわけか」
「一族以外に見えるのか?」
 朝熊は驚いた。伊勢では誰でもつけているが、外ではそれをつけていると言われたことがない。三つの一族以外の普通の人々にも、そして、出雲の一族にも。それが、戸隠の一族には見えるのだろうか、と朝熊は思った。
「心配かい。でもおそらく、戸隠でも僕以外には見えないと思うよ。克雅様には見えていなかったし、僕が認めるほどの《力》の持ち主は、戸隠には存在しないし……」
 朝霞の声に湿ったものを感じて、朝熊はどうしたのか、と朝霞を見た。
「戸隠では、《力》を持って生まれるのは希有なことなんだ。伊勢や出雲では、《力》がないことのほうが、おかしいことなんだろうけどね。戸隠はその王国だけでなく、《力》さえも、自然消滅するに任せていたんだ。そして、僕のような先祖返りがおこるのさ。朝熊殿には判らないだろうけど、戸隠では《力》を持っていることで、一族から奇異の目で見られてしまう。少しの《力》でもそうなのに、僕のような《力》では、奇異と言うより、恐怖と言ったほうがいい視線で見られるんだ。僕にこの《力》があるのを知られてから、僕は、その眼差しでみなに見つめられ続けているのさ。僕は、あなた個人を気に入らないのではない。伊勢や出雲の一族、みんなが僕の気に障るってわけ」
 朝霞の言葉に、やっと朝熊は納得した。朝霞がずっと朝熊を見つめていた視線の鋭さの理由を。
「僕は、でも諦めはしない。自分を殺すのは簡単さ。でも、僕はその道だけは選ばない。僕には、会わなければならない人がいるような気がするから。そして忘れたくない人がいるから。それだけのためでも、僕は、生き続けたいと思っているわけさ。たとえ、自分の《力》を制御出来るようになるまで、あの男に抱かれ続けたとしても」
 朝霞の脳裏に浮かんだ一人の青年の姿を、朝熊は気づかない。そして朝霞の表情には、自嘲は浮かんでいない。だが朝熊には、10歳の少年が懸命に考えだした生き方なのだ、と思った。朝熊のその心の中が見えたのか、朝霞が頬を緩めて、
「朝熊殿、僕はしごく楽観主義なんだ」
 と言って笑った。
 朝熊は、克雅の館に三日ほど滞在し、とりあえず伊勢への帰途についた。
 朝熊が朝霞にその次会ったのは、6年後のことであり、その間、朝霞は陬生学園の初等部から中等部、高等部と進み、朝熊は、伊勢の中では倭を守りつつ彼女の成長を見つめ、伊勢の外では、知識を高めることに終始した。


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