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この前のホテルのスィートルームであった。
克雅はベッドに腰掛けて、朝霞は少し離れた場所に立ったままであった。
「その表情は、久々じゃな」
朝霞の蒼白な顔を見て、克雅は言った。朝霞が自分の体を両腕で抱き締めた。
「僕の質問に答えてもらいましょうか、お父様。でなければ、僕はあなたに近づきませんよ。いいんですか、タイムリミットまであと、2時間程度ですよ」
克雅は顔色を僅かなりとも変化させなかった。朝霞はそれが気に入らなかったが、視線を鋭くさせただけであった。
「わしは、別にこの世界が消滅しようとも構わない。お前がそこを動かないのならば、一緒に死ぬまでのこと。嬉しいではないか、お前と心中出来るのだからな」
克雅はそう言って、嬉しそうにカッカッと笑った。朝霞が思わず両腕を緩める。
「あなたはそういうことを言うのですか。それはすばらしいお考えですね。僕には、ついていけませんよ。でも同じ死ぬなら、あなたと一緒には死にません。ここから出ていきますから」
朝霞が本当に出ていこうとする背に、克雅は投げかけた。
「朝霞、お前はそろそろ、自分で《力》を制御出来るようになる。そうなると、わしの楽しみがなくなるから、教えたくなかったがな」
朝霞は驚いて振り向いた。
「制御出来るようになる? 僕が、自分の《力》を? 本当に?」
「何が嬉しくて、このような嘘をつくというのだ。冗談ではないぞ。確かにそれは、まだのようだがな」
克雅の頬に哀しげな色が浮かんでいるのに気づいて、朝霞はきっと本当のことだろうと思った。
「どうすれば、僕が制御出来るようになるのです。教えてください」
朝霞の顔に喜色が浮かんでいるのを見て、克雅は肩を落とした。だがすぐに、克雅は朝霞に向かって手招きをした。
「教えてやろう。近くに来い」
克雅にそう言われて、朝霞は思わず近づいた。すぐ側に来た朝霞の右手首を克雅が掴む。そしてクックッと笑うと、克雅は老人とは思えないほどの力で朝霞を引っ張った。倒れかかる朝霞が必死に逃げようとするが、いつの間にか克雅に押さえ込まれていた。
「嘘……だったんですか」
屈辱を受けた表情になって、朝霞は言った。克雅がその恰好のまま、首を振る。
「嘘ではないぞ。だが、ただで教えるのは、わしの性にあわんからな」
朝霞はもがいていた体から、力を抜いた。朝霞とて死にたくはないのだ。生き続けることが出来るのなら、そして、この忌避すべき《力》が制御出来るようになるのなら、自分は克雅に抱かれることなく、人生を楽しむことが出来るのだ。それは、歓迎すべきことではないか。そのためなら、残り少ない克雅との逢瀬を受諾することが出来る。
克雅の指が朝霞のネクタイを緩め、ボタンを外していた。朝霞のその美貌に、無表情が浮かぶ。それがいつまでもつかは、朝霞には自信がなかった。《力》を持っていることに回りが気づき、克雅によってそれが抑えられることを知ってから、自分が何度この男に抱かれたのか、朝霞にとってそれを数えることは、屈辱の数を数えることであった。それ以上に、屈辱の数だけ快楽の数があったことを、朝霞は認めることが怖いのだ。真実であると、自分は認めたくないのだ、と快楽がおさまるたびにそれを認めていた。
馴れた手つきで克雅は朝霞を愛撫する。それに反応してしまわざるを得ない朝霞であった。噛み締めた唇から、喘ぎ声を漏らしつつ、朝霞は考えていた。
(いつの間にか、僕はこの男から逃げだせなくなっているのではないか)
と。
それが真実であっても、気の迷いであっても、朝霞が今、克雅にすべてを任せたいと思っているのは、事実であった。朝霞の白い体が、ほんのりとピンクに染まる。もはや朝霞はその喘ぎを堪えてはいなかった。朝霞は克雅を迎えるべく、体を起こした。
変わらない松葉色のカーテンが、その荘厳さでもって外の光を遮断していた。ほの暗い部屋のベッドで、真白いシーツと真白い肉体が、そこだけ光があたっているように浮かんでいた。
「さあ、教えてください」
朝霞が克雅からやっと解放されて、気だるげな口調で言った。体も気だるい。いつもより長い逢瀬に、朝霞は疲れ果てていた。克雅の乾いた指先が、朝霞の頬を滑る。朝霞は逃げようともしなかった。
「すべては、お前が布城崇に出会ったことから、始まったのだ」
「すべて?」
克雅が朝霞を見つめたまま頷く。
「すべてとは何です?」
朝霞が少し体を起こした。前髪がパラリと落ちた。克雅が首を振る。
「朝霞、わしにも判らぬことはある。わしに今判っていることは、お前が布城崇によって変わるだろう、ということだ。お前は布城崇によって、その《力》を増大することになる。わしにでも抑えられなくなるぐらいに、じきにそうなるだろう」
「崇によって、僕の《力》が増大していると言うのですか。あなたが抑えられないのならば、僕にいきなりその《力》を制御する力が出てくるとでも言うのですか。いったい、僕の《力》は何なのです。僕の《力》は、すべてを破壊に導くだけの他に能のないもの、僕が持っていることが何かしら意味を持つことなのですか。克雅様、教えてください。あなたの知っていることを、僕が知りたいことを」
朝霞の必死の形相を、克雅は静かに見つめていた。朝霞はそれがいらだたしい。だが、今主導権を握っているのは克雅で、自分はその手のひらに乗っているにすぎないことを、朝霞は知っていた。克雅の指が、朝霞の落ちた前髪を掻き上げる。
「朝霞、お前にとって、布城崇が重要な働きをすることは確かだ。これだけは、正しいことだろう。そして、その布城崇を狙っているのは、伊勢、出雲、奈半利の三つの一族だということも正しいのだ。それ以上は、何が真実なのか、わしの想像であるだけなのか、判らない」
克雅の朝霞の前髪を掻き上げた指が、肩から腕を滑る。その微妙な動きに朝霞は惑わされながらも、克雅の言葉を一つも漏らさず聞き取ろうとしていた。
「崇は、それほどに重要人物なのですか……。《力》など全くない、ただの高校生ではないですか」
朝霞の言葉に、克雅は朝霞の背中から脇腹にかけて、爪をたてるように滑らせていた。ビクッと震える朝霞の反応を楽しみながら、克雅はおかしげに笑った。
「ただの高校生、か。おかしなことだな、朝霞。お前がそのようなことを言うとは」
朝霞が不審げな表情を克雅に向けた。
「朝霞、何故、布城崇に興味を持ったのだ。それを考えてみたことがあるのか」
朝霞は克雅にそう言われて、それに答えるべき回答を持っていないことに気づいた。
「お前たちは、会うべくして会ったのだ。布城崇は、確かに《力》など全くないただの高校生だろう。だが、彼を三つの一族が追っている、ということは、彼が《力》を持っていないにしても、何かの鍵になっていることは確かだろうな。朝霞、我ら戸隠は、一族としてはその中に加わろうとは思わぬ。わしが出来ることは、出来るかぎりお前の《力》を中和することであり、戸隠としては何も出来ない、というのが本音だ。それ以上は何も言えぬ。朝霞自身が考えるしかないのだ。そのことは、お前には判っておろう、息子よ」
克雅の顔に微笑みが浮かぶ。朝霞が半身をすっかり起こして、
「判っています、お父様」
と言った。
その日の会話は、それ以上は行われなかった。
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