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陬生学園高等部化学教室。
化学教師の渋谷神室は、明日の実験の準備に勤しんでいた。そこにがらっと戸が開いて、朝霞が入ってきた。
「会長、珍しいね、ここに来るなんて」
小太りの隣のおじさん、という感じの神室がにこにこ笑いながら言った。そして、朝霞の蒼白気味な顔に気づく。
「先生、タイムリミットまで半日……ってところかな」
顔色もないまま笑って、朝霞が言った。神室の表情が変わる。
「何故? 放っておいたわけでもあるまい。早過ぎはしないか」
「そうは思うけどね、んな、落ち着いている場合じゃないぜ。爺さんにでも、牟礼にでも連絡して欲しいんだけどな。ねえ、渋谷せんせ」
神室は懐から携帯電話を取り出すと、電話をかけた。それを終えて、再び朝霞に視線を戻す。
「サイクルが狂った、ということか」
神室の顔に苦渋の色が浮かぶ。朝霞は椅子に腰掛けるとそのまま背もたれに全体重をかけた。
「あまり、信じたくないけどね。僕の《力》がまた一段とアップした、ということなのかな」
「それは布城崇に会ったため?」
朝霞の目が、その言葉を聞き咎めてふいっと上がる。
「それは、どういう意味だ」
神室がハッとして口を噤んだ。朝霞がゆっくりと立ち上がって、神室に近づく。
「あの爺さんから何を言われたんだ、神室」
神室は首を振る。後退りながら何度も首を振った。
「神室、僕はお前も知っての通り、自分の《力》を制御出来ないんだ。今ならどうにかなるけどね。でも僕の感情が高まると、それは加速度的に強まるんだ。神室、僕と一緒に心中したいのか。僕としては、遠慮したい組み合わせだと思うけどね」
冗談とも本気とも取れる口調で、朝霞は言った。神室は机にガタッと背中をぶつける。ガチャガチャと試験管の揺れた音がした。
「か、克雅様は布城くんが会長にとって、出会わなければならない存在だった、と言われたのだ。それ以上は、何もおっしゃらなかったが、このことは、会長には黙っておくようにと言われていたのだ」
「崇が出会わなければならない存在?」
朝霞が眉をひそめる。その時、ガラッと戸が開いて、牟礼が入ってきた。朝霞がそのほうを向いて、また神室に目を戻した。
「じゃ、先生、早退させていただきます」
そう言うと、朝霞は牟礼について出ていった。二人が出ていってから、やっと神室はホッと息を落とした。
「布城崇は何者だ?」
神室の口からぽろりと零れた。そして、その問いには答えてくれる人はいないのだろう、と確信していた。自分はそれを聞けるほど、重要人物ではないのだから。
神室は、戸隠一族の一人であった。といっても、神室自身は戸隠の王国に足を踏み入れたこともない。神室の何代も前の先祖が戸隠から東京へ出てから、故郷へ戻ったことはなかった。神室にとって戸隠は、僅かに自分の中に流れている血でしか、確認することが出来なかった。
神室は陬生学園における、朝霞のお目付け役のようなものであった。陬生学園に教師として入ったのは、偶然であったと自分では思っている。しかし、陬生財閥と戸隠の王の一族との関係を知ってからというもの、巧妙に仕組まれたものではないか、と思っていたりするのだ。だが、それだからといって、それを図られたとか、また自嘲したりすることはなかった。ある意味で、神室は戸隠であった。その一族が自然のままに、王国が王国でなくなったように、自然にその波に乗った、と考えたからだ。
神室には《力》がない。だからただ、朝霞を見つめているだけしか出来ないのだ。そして神室は、自分では《力》が欲しかったとは思わなかった。だから朝霞に対する目は、同情が主だった。自分の《力》を持て余している朝霞、自分で制御出来ないほどに、その《力》は巨大化していた。それは、一定のサイクルで徐々に大きくなっていくのだ。そのまま放っておくと、核爆発など及びもしないほどの、エネルギーが爆発するのだ。制御出来れば、その使い道はいろいろあろう。だが、朝霞は制御出来なかった。少なくとも、今は。だから、克雅が必要なのであった。克雅の《力》は、中和能力であった。克雅の《力》は、朝霞以外の《力》の持ち主であれば、その《力》を根こそぎ奪ってしまうほどの威力があった。もう二度と《力》を使えないほどに……。克雅の《力》も、朝霞と同じように、使い道を誤ると、とんでもないことになるのだ。その点では、二人はいいコンビなのだ。
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