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霧島家は日舞の家元であり、内弟子たちを多くかかえているため、かなりの広さがあった。麻績の家族は奥の離れに、表は内弟子たちの住居やその他の多くの部屋で占められていた。表と奥は、隔絶された状態であった。
「麻績様、家元がお呼びです。書斎のほうへおいでください」
奥仕えの使用人が麻績に言った。麻績は、
「判りました」
と答えて立ち上がった。
180pのすらりとした長身に麹塵の色の着物を着ていた。家が家だけに、麻績は制服以外は和服でいることが当たり前であった。長い髪を後ろで一つにまとめて、三つ編みにしている。
麻績は障子を開けて、ふと気づいたように扇子を帯に挟むと廊下に出た。
麻績の父親であり、家元である璃寛は、41歳。若い家元ではあるが、これは、前代である麻績の祖父が、一昨年急死したためであって、しかし、璃寛の実力は万人に認められていた。璃寛の表現力の豊かさと、それに加えて正確なまでの動き。それは、代々の家元の中でも、傑出したものと言われている。そして、麻績に対する評判は、その父親の血に加えて彼の美しさが、父親以上の実力となっているいうことであった。
「お父様、お呼びでしょうか」
麻績は書斎の前で障子に向かいそう言った。中から、
「お入り」
と声がした。細い声。麻績は障子を開けて中に入った。中には璃寛ともう一人、客がいた。
「いらっしゃいませ」
麻績が軽く頭を下げた。
「息子の麻績です。麻績、こちらは檮原様です」
檮原と紹介された男は、麻績に視線を向けた。年は璃寛より少し上ぐらいだろうか。目元に優しげな笑みを浮かべていた。ふさふさとした白髪が、檮原の僅かな動きにつれて一緒に揺れる。
「陬生学園高等部の2年生だそうですね、麻績君。しかも、トップクラスということ。霧島さんも誇りに思っているそうですよ」
檮原がそう言って、にこにこと笑った。麻績は頭を下げた。
「ありがとうございます。誇りを持っていただけるほどの実力を持っているとは、謙遜ではなく思えないのですが、それにふさわしいほどの実力を持てるように、精進したいと思っております」
檮原が璃寛のほうを向いた。そして頷く。璃寛も頷いた。麻績は表情を変えずに二人を見つめた。
「麻績、顔合わせは終わりです。戻りなさい」
璃寛が麻績に目を向けてそう言った。
「判りました。檮原様、ごゆっくりしていってくださいませ」
麻績がそう言って立ち去った。
「《力》のほうは?」
檮原はさきほどとは打って変わって、柔和そうな表情ではあるが、厳しい声で言った。璃寛は頭を下げた。
「私よりは上だと思われます。実際に計れないものですから、本当のところは判りかねますが……」
「ふむ、そうだな」
檮原はそう呟いて、璃寛を見つめた。
「我らは後継者の《力》をこの目で見ることが叶わないのだからな」
璃寛はその言葉に頷いた。
「それで、お前は彼にそのことを伝えているのか。我らの素性と、それに付け加えられた数多くの目的ごとを」
檮原が腕組みをして言った。璃寛は僅かにビクッと震えた。
「いいえ、何も伝えていません」
檮原の目元の笑みが消えた。
「伝えていない……だと」
「檮原様、何故、それが必要なのですか。私たちは、今のままで幸せなのです。それではいけないのですか」
「璃寛」
檮原の声が低く響いた。
「お前は、我らの一族足る自覚がないのか。それをお前自身が考え、後継者に伝えるのが、我ら一族の使命ではないか。璃寛、お前は一族から逃げるつもりなのか」
璃寛は顔を強張らせて首を振った。
「一族から逃げるなど、考えてもみません。しかし檮原様、我らが今の状態を続けることが何故、許されないのですか」
「一族の今の状態を甘んじていろ、と言うのか。お前はそれで満足なのだな」
「満足……いったい、王は何を考えているのですか。わざわざ波をたてずともよろしいではありませんか」
「璃寛」
檮原がギロッと璃寛を睨む。
「一週間待つ。我らの一族足るか、あるいは、その名を捨てるか。璃寛、私は、お前を気に入っている。なるべくなら、お前の後継者よりも、お前とずっと付き合いたいと思っている。正直なところ、お前が一族の意志を理解しているものだと思っていた。それが、間違いだとは今でも信じたくないのだ。璃寛、良い返事を待っているぞ」
「檮原様……」
璃寛はただ、檮原を見つめていた。檮原は出ていった。璃寛は肩を落とした。そして、立ち上がる。璃寛の行った先は、麻績の部屋であった。
麻績は文机に向かって読書をしていた。そして入ってきた璃寛に体を向けた。
「お客様はお帰りになりましたか、お父様」
麻績は自分をジッと見つめたまま、何も言わない璃寛を訝って言った。
「麻績……」
「はい」
麻績は璃寛の次の言葉を待ったが、再び、璃寛は沈黙を守った。麻績は自分から言葉を紡ぐわけにもいかず、璃寛を見つめ続けた。
「麻績、私はずっと……いや、お前をいつまでも、私は守っていきたいと思っています」
「え?」
璃寛の言葉に、麻績は首を少し傾げた。
「だから、お前はお前の思う通りに生きなさい。お前の信じるものが正しいのです。それを忘れないようにしなさい」
「お父様」
璃寛は麻績に微笑みかけた。哀しげな笑い。麻績はその微笑みが気になった。だが、璃寛はすっと立ち上がって、息子が己に向けるだろう質問を、優しく拒絶していた。璃寛が部屋を出ていく。麻績は父親の背を黙って見つめ続けた。
(あの檮原という男、いったい何者だったのだろう)
璃寛の閉めた障子を見つめながら、麻績は思った。璃寛の言葉は、その檮原に会ったことによって、発せられたことではないのか。
麻績は檮原や璃寛の言うところの《一族》のなん足るかを知らず、璃寛と檮原は、麻績の《力》を知らない。まあ麻績にしても、自分の《力》を知らないのだから、全体的に見れば、麻績と二人のギャップは果てしなく大きいのだ。麻績は、自分のことは、他人が知っていること以上には、知らないと言ってよかった。普通の人と同じように……。そして璃寛も、麻績にはそのままでいて欲しかったのだ。それが崩れ始めようとしていた。
だが、麻績はまだ何も知らなかった。
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