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崇は授業が終わったので、クラブへと向かっていた。それを追いかけてきたのは、朝霞であった。
「崇ちゃん、クラブの後、学生会室に来てね」
特上の美青年である朝霞は、トレードマークになっているそのへらへらとした笑いで崇に言った。
「うん、いいけど。何かあるのなら、これからでもいいよ」
奸計にはめられたとはいえ、いちおう、学生会の会計の座に就いているからには、それなりに使命は果たさねばならないと思っている崇である。
「あ、いいの、あとで。崇ちゃんは弓道の腕で、陬生学園を成らしめて欲しいから、学生会は片手間でいいのよ。あたしが会長であるかぎり、学生会は不滅ですもの」
その後に、思わずオーホッホッホと続きそうな気がして、崇は耳を押さえようとしたが、その笑い声は響かなかった。一瞬、朝霞が口を噤んだのには気づいたが、その視線をどこに向けていたのかには気づかなかった。
「久々に弓道でも見学しようかなあ。知ってた? あたし、弓道やってたのよ」
「知ってた。先生が朝霞が移り気なのを嘆いていることも。朝霞、一つのことに身を入れてみれば? だいたい、朝霞の成績が中の上、ということも信じられない。スポーツだって、移り気なわけじゃない。わざと自分を隠そうとしているのは何故?」
朝霞が驚いた目を崇に向けた。
「おやおや、崇くんは何でもご存知のようですね。全く、朝霞さんは頭が下がりますよ。君には簡単にばれてしまうのですから」
崇は疑わしそうに朝霞を見た。朝霞は本気で冗談を言うし、冗談に本気も混ぜる。
「朝霞、昨日からいつになく、マジ……」
崇にとって、それは不気味としか言いようがなかった。
「言っただろう。僕はいつだって、マジなのってね」
弓道場の入口について、朝霞は、
「じゃね」
と手を振った。
「久しぶりにやらないのか」
崇の言葉に、首を振って朝霞は去っていった。それをちょっとの間見送って、崇は弓道場へと入っていった。
朝霞はまっすぐにカフェテラスに向かった。そして、倭の斜め後ろの席、つまりは朝熊がよく見える場所に陣取った。
「会長、いらっしゃいませ」
カフェテラスのウェイトレスは、学生のアルバイトで賄っている。学園も安心だし、学生たちも授業に差し障りがない程度までのことは認められているので、ついでに、学園内なので移動も便利なので人気があった。時給がいいことも人気の一つではあったが。授業料の高さでも一流の陬生学園の学生たちがバイトをするのは変な気がするが、奨学生もいるし、もちろん、お嬢様の好奇心というものも存在するのだ。
朝霞の注文を聞きにきたのは、大学部の学生であった。朝霞の人物に対する記憶力は抜群で、学園内の学生、教師、果てはパートのおばさんまで、データが頭の中に入っているという噂であった。
「柚木野さん、今日の姫君はあなたでしたか」
大学部3年の柚木野遙は、フルートの名手として有名であった。朝霞に見つめられて、遙は少し赤くなった。
「会長、そのようなおっしゃり方をなさると、みなさん、誤解なさいますわ。それよりも、私、会長にぜひ試していただきたいものがございますの。それを注文なさってくださいな。お願いします」
「柚木野さんの頼みとあれば断れませんね。では、それを」
にっこりと笑って朝霞は言った。遙は頷いて去っていった。
朝霞は朝熊に目を移した。朝熊はさっきからずっと朝霞を見ていた。
(何故、伊勢が?)
(やはり、戸隠……)
二人の視線はしばらくかち合ったままだったが、遙の声に朝霞のほうが視線を移した。
「会長、どうぞ。試していただくのですから、無料で構いませんわ」
遙がニコッとして言った。朝霞も笑いながら、
「柚木野さん、さきほど聞かなかったのですが、これは何ですか」
遙が持ってきたのは、ティーサーバーであった。紅茶のようであるが、試す、というからには、それがただの紅茶であるわけはなかった。
「アールグレイですわ、会長のお好きな」
「それだけですか」
朝霞もにこにこ笑いながら言った。
「あら、会長は私をお疑いですか。アールグレイしかいれていませんわよ」
遙の言葉に朝霞は一口飲んだ。そして、一瞬目を閉じる。
「確かに、アールグレイのようですね」
朝霞の言葉に、遙はクスクスと笑った。
「では、私が試していただきたい、と言った理由も判っていただけましたわね」
朝霞は肩を竦めた。
「全く、柚木野さんには油断が出来ませんね。高等部学生会会長として、日夜学生のために励んでいる私に、紅茶ぐらい安心して飲ませてもらえませんか」
遙は歌うように、
「あら。ですから、私は会長のお好きなアールグレイを、美味しくいれる方法を日夜努力しているのですわ。それが美味しくない、と言われるのでしたら、私の努力が至らなかったためですね。反省していますわ」
と、でもくしゅんとなって言った。
「柚木野さん、そのように私のために努力していただいていることは、大変にありがたいことです。私の言葉が足りなかったようですね。とても、美味しいですよ」
遙は、途端ににっこり笑って、
「では、会長、いかがでした?」
と言った。朝霞はまた一口飲んだ。
「そうですね、今日のはちょっと自信がありませんが。フォートナム&メイソンが小さじ2杯、ハロッズが小さじ1杯と3分の1、ウイッタードが小さじ1杯、それを、80度のお湯で、2分間。この解答はお気に召しませんか」
遙は目を見張った。
「さすがは会長ですわ。95点の解答です。マイナス5点は、80度でなく、81度だったのです」
「そうですか。これは、まだまだ日頃の努力が足りませんでしたね。日々精進しましょう」
朝霞の言葉に、遙は頭を下げて去っていった。
朝熊から見るとこの馬鹿げたような二人の会話が終わって、ホッとした状態で朝霞を見ることが出来た。倭が、
「朝熊、ちょっとぶらぶらしてきていいか」
と言って、朝熊の頷きの後、弓道場のほうへ向かっていった。倭が見えなくなると、朝熊が立ち上がって、朝霞のテーブルに移った。
朝霞は何も言わない。そして、朝熊も何も言わない。その状態がかなり長い時間続いたようであったが、実際はそうでもなかった。
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