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伊勢。
 倭と朝熊が出ていってから、二、三日後。
「王よ、少々時間を割いていただけますか」
 芳養は自室で趣味の水墨画を描いていたが、その声でしばらく筆をおかなければならないことを哀しんだ。
「入れ」
 芳養の声に入ってきたのは、枝下であった。芳養の実弟であり、芳養に子供がいないため、王位継承権第1位の持ち主であった。枝下には二人の息子がいて、それぞれ継承権2位3位の権利を持っていた。
「枝下、どうかしたのか」
 枝下の顔色が悪いことに芳養は気づいた。その勾玉の色は半濁の緑色、水色が混ざっているのは芳養と同じだが、芳養よりももっと半透明であった。それだけ《力》がない、ということなのだ。
「王よ、巫覡は……」
 とそこで枝下は言葉を止めた。芳養がギロッと枝下を見つめた。
「巫覡はいないのか」
「枝下、何を言いだすのだ」
 枝下は芳養に睨まれて顔を伏せた。
「巫覡はいる」
 芳養ははっきりとそう言った。
「本当に? 嘘ではないのだな」
「枝下、確かにお前は私の弟だ。だが今は私は伊勢の王であり、お前は一族の一人でしかない。王位継承権が不変のものであると信じぬほうがよいな。代々、伊勢の王はそれにふさわしい人物がなるように決まっている。ただ、血の繋がりがあるというだけで、伊勢の王は選ばれていないことは、お前も知っているだろう。ところで枝下、巫覡がいないと誰に言われたのだ。巫覡に会えるのは、私と阿品だけのはず。誰に言われたのだ」
 枝下はハッとして唇を噛み締めた。
「私の勘が、そう言ったのです。誰に言われたのでもありません。夢の中で巫覡を見ました。それが、今はいないのです」
「ほう、夢の中で? お前の夢の中の巫覡はどのような方なのだ」
 芳養は興味深げに言った。枝下は、
「白髭の長い老人でした。目元が優しく、白髪も長く、それを後ろで縛っておいででした」
 と言った。芳養はその表現の人を知っていた。いや、教えられていた。伊勢の王祖の第三子、巫覡の第1代目であった。
「その方は、巫覡の1代目だ」
 呟くように芳養は言った。枝下は目を見張った。
「そうか、あの方がお前の夢にな」
 芳養はそう言って、枝下をジッと見つめた。
 四歳下の実弟である枝下。彼に対する芳養の評価は辛かった。先代の武儀が芳養を次代の王に選んだのは、芳養のほうがまだ伊勢の王として、一族を束ねられる器量を持っていたからであった。芳養にしても、武儀にとっては心もとなかったのではあるが、枝下と較べるとかなりましということであった。枝下の息子は二人。益城と成岩の二人は、親よりは芳養の評価は良かった。だが、その程度であった。
 自分の弟であるというだけで、次代の王を約束されているような枝下を、芳養は知らず知らずのうちに見下していたのだろうか、と反省した。
「枝下、とにかくは巫覡はいるのだ。お前がそのように騒いでどうするのだ。仮にも王位継承権1位の持ち主だというのに」
 枝下は芳養の言葉にうなだれた。
「用はそれだけだな。私は阿品に用があるから出掛けるぞ」
 枝下は頭を下げて、芳養の自室を出ていった。筆を片づけた芳養は、阿品の屋敷へと出掛けた。


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