朝霞は角を曲がったところで立ち止まった。すぐに、車がすうっと側に止まる。運転手がさっと出てきて、後部ドアを開けた。朝霞が当たり前のように中に入ると、運転手がドアを閉めて車は静かに発進した。
 朝霞は車の中で仏頂面のまま、用意してある服を着た。黒の蝶ネクタイに黒のスーツ、櫛で髪をオールバックにすると、サングラスをかけた。着ていたものをきちんと畳むと袋の中に入れて背もたれにもたれ、前の座席との仕切りを開けた。
「着替えはおすみですか。まもなく到着しますので、お寛ぎください」
 助手席に座っている男が振り返ってそう言った。朝霞は、仏頂面のまま外を向いた。男は前に向き直って、
「仏頂面はお止めください。せっかくの美人が台無しですよ」
 と笑った。朝霞は無言で男に視線を戻した。
「ねえ、陬生朝霞様」
 その少し茶化したような声色に、
「牟礼」
 と朝霞が男をサングラスと座席ごと睨んだ。男は肩を竦めて前を向いた。
 車がホテルの玄関先に着くと、ドアがガチャッと開けられて、朝霞は外に出た。牟礼も出たところで、車は去っていった。
 朝霞はさっさとホテルの中へと入っていった。牟礼は、朝霞をスッと追い抜いて、エレベーターのボタンを押す。エレベーターのドアが開いて、二人は中へ入っていった。牟礼が階数を押して、その階まで二人きりであった。
「今日は機嫌がお悪いみたいですね。どうなさったのですか」
 牟礼の問いに何も答えず、朝霞は壁にもたれていた。
「一月ぶりの逢瀬ですのに、その仏頂面は部屋ではお止めくださいね」
「牟礼」
 朝霞が牟礼のほうを向いた。
「お前、いつから僕に指図出来るようになったんだ。お前はただの連絡係だぞ。それに、その茶化すような口調を直せ。僕にその気があったら、始末してるぞ」
 牟礼はちょっと顔色を変えて、頭を下げた。
 キンコンと音がして、エレベーターが止まる。
「どうぞ」
 と牟礼は朝霞を促して、朝霞が出ていくと自分は乗ったままドアを閉めた。
 朝霞は一人になって、ゆっくりと足を進めた。突き当たりのドアをノックもせずに開ける。そして、中に入ってまたドアを開けた。
「やっと来たか」
 しゃがれた中にも、嬉しそうな感じを含んだ声が聞こえてきた。朝霞は無言でその声のほうへ進んだ。そして、ベッドに寝ている人の側に行くと、
「お久しぶりでございます」
 と言った。ベッドの中は、白髪の老人であった。他には誰もいない。それに気づいて、朝霞はまずい顔をした。
「座れ」
 老人はベッドの側の椅子を指さした。朝霞は無言で座った。
「何故、そのように仏頂面をする。久しぶりの逢瀬ではないか」
「牟礼と同じことを言わないでください。僕の予定のほうを優先させていただきたかったですね」
 老人は、クククと笑った。
「それほどに気に入ったか、あの子が」
「御用はなんですか。世間話はしたくありません」
 朝霞の声には冷やかな棘が充分に込められていた。老人は、それを気にした風でもなく、
「仮にも親子ではないか。演技でも嬉しそうにしろ」
 と笑いながら言った。
「そう、仮でも親子ですね。ではお父様、肩でもお揉みしましょうか。あなたの肩には、陬生財閥のすべてがかかっていますからね。ずいぶんこっているのではありませんか」
 朝霞は立ち上がって、老人を起こそうとした。その手を老人が握る。
「朝霞、それほどに、わしに顔を見せるのが嫌か。老い先短い老人に、たまに目の保養をさせるのも、若い者の務めだと思わぬか」
 老人の手が朝霞の頬に伸びる。朝霞は逃げようとしたが、もう一方の手が、朝霞の手をしっかりと握って放さなかった。
「思いませんね。僕がこの顔に生まれたのは、不幸としか思えませんよ。何の因果で、あなたの慰み物になったのか」
「慰み物とはちと言い過ぎではないか。わしは、お前をそのように思ったことは一度もないぞ」
 老人の手は、朝霞の頬から滑って、蝶ネクタイを緩めた。
「それはそうでしょう。あなたは、自分が楽しめればいいのですから。僕にとって、この時間がどれほどに屈辱的なことか、あなたは判っている上で、僕を呼ぶのですから」
 老人の生暖かい指先が、緩めた胸元から入り込んできて、朝霞はガクッとベッドに膝をついた。はずみでサングラスが外れ、前髪がバサッと落ちた。
「そして、僕が絶対に拒絶出来ないことを知った上で、あなたは僕にけしかける」
「拒否してもいいんだぞ」
「そう、そう言って……」
 朝霞は老人の成すがままにしていた。
「仮にも親子だ。親子のスキンシップと思えばよい。子供が出来るわけでもなし」
「仮でも親子ならば、近親相姦とも言えるのではありませんか。確かに子供の心配はありませんけどね」
 朝霞は吐き捨てるように言った。老人の舌が朝霞の首筋をはった。
「いつも、嫌がっているようには見えぬがな」
「そうすることを、あなたが嫌がっているからです。それに、拒絶出来ないのならば、楽しんだほうが得と考えただけです。あなたの寝物語は、たまに無視出来ないことをおっしゃいますからね」
 朝霞はそう言って、薄く笑った。
「それでなくては面白くない。さすがわしの息子だと、言っておこうか」
 老人が朝霞の背に舌を滑らせながら笑いを浮かべた。
 ホテルのスイートルームの、厚い松葉色のカーテンが風もないのに揺れた。
 やがて、老人の寝息の横で、朝霞はそっと起き上がり、バスルームに入っていった。しばらく後、シャワーの音が途切れて、朝霞が気だるそうに出てきた。そして、ベッドの側の椅子に座って、老人をジッと見つめていた。
 陬生克雅、陬生財閥の創始者であり、会長であった。実質的な経営は、すでに長男の良之に譲っていた。
「わしが目を閉じていると、わしを見るのか」
 克雅は、目を閉じたままで言った。朝霞は濡れた前髪を掻き上げた。
「いけませんか」
 朝霞は立ち上がって、
「では、失礼します」
 と言った。克雅が朝霞のほうを向いたが、目は閉じたままであった。
「朝霞、気を付けろよ」
 克雅の言葉に、朝霞が呟くように、
「あなたという人が、時々判らなくなりますよ。どこまで奥が深いのか……」
 と言った。そして続けて、
「そう思っているのでしたら、僕と崇の邪魔をしないでくださいね、今度から」
 と付け加えた。克雅はクククと笑った。
「お前が足手まといにならなければ…な、息子よ」
「判りました、お父様」
 朝霞はサングラスをかけると部屋を出ていった。
 エレベーターホールに行くと、すぐにドアが開いた。中には牟礼がいる。牟礼は何か言いたそうにしていたが、朝霞にチロッと見られると、結局何も言わずに地階を押した。駐車場の車に向かいながら、二人は何も口をきかなかった。そして、乗ってきた車に乗り込むと、ホテルをあとにした。


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