「だいたい、朝霞が悪い。あいつさえ、逃げなければ……。あー、すべての諸悪の根源はあいつだ」
 崇は弾む息がやっとおさまったところで、靴を脱ごうとしてあれ、と思った。
「何で、朝霞の靴がここにあるんだ」
 応接間から京の笑い声が聞こえていた。京は、崇の母親であった。ガチャッとドアを開けると、京がパッと顔を上げた。
「お帰りなさい。さきほどからお待ちよ」
 くるりと振り向いたのは、やはり、予想に違わず朝霞であった。
「朝霞……。何で僕の家にいるんだ」
 京にお辞儀して立ち上がり振り向いた朝霞に、ぶっきらぼうに崇は言った。
 ちなみに朝霞が崇の家に来たのは始めてではない。高等部みんなの奸計? のようにして、学生会の会計になったその日に、早速朝霞はご挨拶と称して布城家を訪ねている。その時から、しょっちゅう朝霞は遊びにきていた。今では、朝霞はすっかり京のお気に入りなのである。
 崇は当たり前のようについてくる朝霞に、階段の途中で振り向いてその足を止めさせた。
「どうしたの、崇ちゃん」
 へらへらと笑って、朝霞が言った。
「朝霞、だから、おネエ言葉を止めろと言っただろ」
 崇の不機嫌な顔を見つめて、いきなり、朝霞が真面目な顔になって、
「とにかく、部屋に入ろうぜ、崇。大事な話があるんだ」
 と言った。崇は朝霞の声に本気のマジな感じを受けて、まじまじと見つめてしまった。朝霞の促しを受けて、崇は自分の部屋に入っていった。朝霞が当然のように崇のベッドに座る。
「朝霞、話っていうのは、僕の質問に答えてくれることか」
 崇は朝霞を半信半疑の顔で見つめた。朝霞のマジな顔は珍しくはないが、いつもそれが冗談のようにかわされてしまう。だからまだ、いつもと朝霞が違うのは判ってはいるが、またいつものようになってしまうのだろうか、と思っていたのだ。
「崇、僕のことを知りたいか」
 その声に、う、と詰まって、
「し、知りたい」
 と呟いた。いよいよ、朝霞の秘密のベールがはがされるのだろうか。本当に? と、崇はしかし、まだ半信半疑だった。
「僕の名前のことを聞いていたな。崇、これは、トップシークレットだぞ」
 朝霞のマジな顔が、崇に近づく。つられたように、崇も少し近づいた。
「名前は朝霞。名字は……陬生なんだ」
 囁くように朝霞は言った。え、と崇は言った。
「陬生って、陬生財閥の? 陬生学園の、陬生?」
 朝霞は頷いた。
「そう。僕は出来の悪い三男坊でね、陬生財閥の関係と知られたら、ちょっとまずいことになるんだ。だからこれは、トップシークレットなの。だから、僕の名前は朝霞しかない。これを教えたのは、崇、君だけだよ」
 崇はギョギョッと朝霞を見つめた。これが、かの陬生財閥の御曹司なのか。まあ、そう言われると、お坊っちゃまに見えないことはない、と崇は思った。
「崇、これで、僕のことを詮索するのは止めてくれるな」
「いつになくマジ……朝霞」
 崇は少々不気味に感じて、朝霞を見ていた。朝霞がニッと笑って、
「いつだってマジなのよ、朝霞さんは」
 と言った。
「とにかく、秘密は守るよ。僕だけに真実を教えてくれた朝霞に対して、それが礼儀というものだから」
 崇の言葉に、朝霞はにこにこ笑っていた。
「崇、君はすごい事実を聞いたことを忘れないように。君は、僕を破滅させることも出来るんだ。判るかい」
「何故?」
 崇はふと、麻績が言ったことを思い出していた。
『君は、会長のお気に入りですから』
「何故?」
 朝霞が目元に笑いを浮かべて言った。
「何故、僕にそれを喋るわけ? 僕が本当に他の誰にも喋らないって保証が、どこにあるんだ」
「君は、喋らないよ、絶対に、崇」
 朝霞の口調は、確信を持ったものであった。崇は何も言えずに、朝霞を見つめ続けていた。朝霞はスッと立ち上がった。
「と、いうわけで、帰らせていただきます」
「え」
 崇は、さっさと帰ろうとする朝霞に驚いた目を向けた。いつもなら、京の勧めに応じて夕食までも食べているのに、と、崇の目が語っていた。そのせいか、崇の父親亮介にもすっかり顔を知られている朝霞であった。
「今日は野暮用なんだ。崇ちゃんと一緒にいたいのは山々なんだけど、今日ばかりはすっぽかせないもんでね。ごめんよ」
 朝霞がすまなそうに言うのを聞いて、崇はそっぽを向いた。
「別に、朝霞がいなくてもいいさ。母さんがお前を気に入っているのは事実だけど、僕までお前を気に入っていると勘違いされては困る。僕は別に朝霞がいなくても、それが普通でいいんだ」
「ひどい! 崇ちゃんって冷たいのね。あたしがこんなに、崇ちゃんのことを気に入っているのに……。あたしのすべてを話したのに、崇ちゃんはあたしのことを嫌いなのよ」
 朝霞のヨヨヨと泣き崩れる姿を、冷やかに見つめて崇は、
「帰れば」
 と冷たく言った。泣き落としが効かないと判ると、
「崇ちゃんって、前はほんとにからかい甲斐があり過ぎたのに……。近頃はずいぶん逞しくなってあたし、哀しいわ」
 と、朝霞は笑いながら言った。
「あ・さ・か、だ・か・ら」
 崇の睨む顔を見て、朝霞が手を振った。
「じゃあ、明日」
 崇は椅子に座ったまま、後ろ向きのままで手を振った。
「崇」
 崇はいきなり肩を掴まれて、ギョッと振り向いた。
「知らない人についていったら、いけないよ、崇ちゃん」
 またマジな顔になった朝霞を、崇はジッと見つめた。朝霞は、崇の髪をくしゃとして、部屋を出ていった。
 朝霞は台所を覗いて、
「小母様、それでは失礼します」
 と言った。京が振り向いて、
「あら、お帰りになるの。せっかく、朝霞くんの好きな鰯のハンバーグを作っているのに。何かご予定があって?」
 と残念そうに言った。朝霞は礼儀正しくお辞儀すると、
「残念ですが、どうしても外せない約束がありまして……。また今度、改めてご馳走になります」
 と言った。京はそう、と呟くと、
「あら、崇はいないの」
 と気づいた。
「崇くんは部屋で勉強しています。では、小母様、お邪魔しました」
 朝霞はにっこりと笑って、もう一度、お辞儀して去っていった。
 崇は部屋の中で、朝霞が出ていく音を聞いていた。どこまで朝霞が本当のことを言ったのか、それは崇には判らない。朝霞にくしゃくしゃにさせられた髪を直しながら、崇は朝霞の秘密は聞かなかったことにしようと思っていた。
 布城家を辞した朝霞は、フッと崇の部屋を見上げた。
「全く……」
 朝霞は口の中で呟くと、くるりと背を向けて立ち去った。
 朝霞が去った後、すぐ近くの暗がりから出てきたのは仁多であった。
「学校の友人か……」
 仁多が呟いて、また暗がりに戻っていった。
 出雲の使者と名乗っている仁多がここにいるということは、やはり崇は透明の勾玉の持ち主なのだろうか。崇はそれを知らず、倭と朝熊は仁多のことを知らず、仁多は伊勢のことを知らない。
 とりあえず、彼らの今日は終わった。


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