「倭」 呆然として打ち震えている倭の肩に、そっと手をかけた者がいた。機械的に振り向くと、芳養であった。 「王よ」 倭はそう言って、芳養の優しげな眼差しに気づいた。 「倭、これは、伊勢の宿命なのだ。巫覡はもう、必要ない、という」 「何故……」 倭の震える声に、芳養は言葉を止めた。 「何故、そのように平然としておられるのです。私には、私には、判りません。伊勢の巫覡は、途絶えてはならないもの。それなのに、後月様も流水様も、私の目の前で亡くなってしまわれた。すでに、この世にあられないことは、この勾玉の色で確実なこと。王よ、何故なのです」 「倭」 芳養がしっかりと、倭の両肩を掴んだ。 「巫覡はお前に託したのだ。その勾玉とともに」 「は?」 芳養の右手が、そっと倭の額の勾玉に触れた。 「この伊勢の運命を……」 「わ、私が伊勢の運命を?」 「倭、これは巫覡の遺言なのだ。伊勢最後の巫覡の、最後の予言なのだ」 倭が芳養の手を離れて、ゆっくりと立ち上がった。 「この私に、伊勢を背負えとおっしゃるのですか。私の勾玉が、より透明に近いから? そうなのですね、王よ。私は欲して、この勾玉の持ち主になったわけではない。どうして私に伊勢の運命を託されるのです。私など、何の力もありません」 倭は、言葉が続かなくて、芳養に背を向けた。そのまま去ろうとする倭の背に、芳養の言葉が被さった。 「倭、確かに、お前が伊勢の一族のための鍵だとは、巫覡は予言した。巫覡の言葉は、ずっと真実だけを語ってきたが、一つぐらい間違ったことを言うかもしれない。ただ、確かなことは、巫覡はいや、後月様と流水様は、生きている間に、お前だけに名前を呼んでもらえたのだ。本当の名前をな。お前に託されたその二つの勾玉は、二人自身なのだ。巫覡は、お前とともにある」 倭は振り返らずに、芳養の前を去っていった。だが、芳養の言葉は、胸に突き刺さっていた。 「巫覡……」 かつて、そこにいたはずの前で、芳養は一人立っていた。 「一つの賭は、あなたの言葉通りになったのですね」 ポツリと芳養が呟いた。 「賭とは、何です?」 すぐ後ろでそう言われて、ギクッと芳養は振り返った。倭はすでに去り、ここにいるのは自分一人のはずであった。 「賭とは、何です?」 同じ言葉をまた繰り返した人物は、芳養の真後ろに立って、ジッと芳養を見つめていた。すらりとした長身に、短く刈っている黒髪。黒でかためた服装に、黒い瞳が芳養を映していた。 「何故、ここにいる」 芳養は相手の質問に答える前に、そう言った。 「王よ、私の質問から答えてください」 彼はそう冷たい口調で言い放った。その態度に、芳養は少なからずムッとした。 「朝熊、私を誰だと思っているのだ」 朝熊と呼ばれた彼は、その言葉にスッとひざまずいて、 「我ら伊勢の一族の王、芳養です」 と言った。その口元に冷笑が浮かんでいることには、芳養は気づかない。 「そうだ。そして、お前は一族の一人。私の質問に答えるほうが先ではないか」 朝熊は、スクッと立ち上がった。そこで芳養は、朝熊の冷笑に気づいた。 「王よ、教えてさしあげましょう。私が真実お仕えする方は、倭のみ。私に命令できる方も、倭のみ。我らの家は、倭姫をお守りする役目を継いでいるのです。そしてこれは、王の祖父、行波の姉上、つまり、倭姫の曾祖母、安芸様から、我らの家に課せられた使命なのです」 「安芸様から……」 芳養の祖父、行波に姉がいて、それが安芸であった。安芸は一族の一人と結婚し、子供が生まれ孫が生まれ、そして、倭が生まれた。王の姉、あるいは、妹としては当たり前の生き方をした人であった。ただ一つ違ったのは、安芸はより巫覡に近かった、ということであった。 「ですから、私があなたの命令に従う義務はございません」 「安芸様は、いったい何をご存知だったのか……」 芳養は、始めて教えられるその事実を半ば呆然として聞いていた。 「それは私も知りません。ただ、今起こっていることを予測して、ということは、当たっているでしょう。王よ、私がここにいた理由は、ただ一つ。私が倭を守る役目を持っているからです。さあ、私はあなたの質問に答えました。今度は、あなたが私の質問に答える番です」 朝熊の口元から冷笑が消え、少しいらだった表情が浮かんでいた。芳養の顔に当惑が浮かんだ。その表情から、芳養が自分の質問を忘れていることに気づいて、朝熊は舌打ちした。 「王よ、賭とは何です」 朝熊はこれで三度同じ言葉を吐いた。 「賭……、巫覡は言われたのだ。もし、倭が巫覡の本当の名前を呼ぶことが出来れば、きっと自分たちの予言は当たっているのだと。倭の肩が、この伊勢の運命を背負うことになるのだと。もし、倭が巫覡を巫覡、あるいは、尊としか呼ばなければ、伊勢は巫覡とともに消え去るのみなのだと。そして、倭は巫覡を本当の名前で呼んだ」 芳養はそう言って、朝熊を見つめた。 「やはり、それは当たっていることだったのだろうな。お前が、安芸様にそう言われたのならば……」 朝熊は芳養をなおも見つめていた。黒い瞳が、冷たい輝きを増していた。 「王よ、賭は一つだけではないはずです。すべて、話していただきたいですね。私が友好的な態度を取っている間に」 芳養の表情は、今の態度がどう友好的なんだ、と言っていた。それに朝熊は気づかないふりをしていた。 「倭が、透明のお方を愛することになると、伊勢に巫覡が再び現れるだろう。つまり、倭と透明のお方の子供が、巫覡になり得るのだ。それが、賭だ」 「では、倭がそうならなければ……」 どうなるのです、と、朝熊の瞳が言った。 「伊勢は、奈半利に滅ぼされるだろう」 「奈半利?」 朝熊が僅かに眉をひそめた。 「巫覡も奈半利の一族と言っていましたね。奈半利の一族とは何です」 「はぐれ者だ。伊勢、出雲、戸隠からの……。彼らは、我らに取って代わろうとしているのだ」 朝熊は首を傾げた。 「三つの一族からのはぐれ者ですか。つまりは、奈半利の一族も、我らと同じような《力》を持っているということですね」 ククッと朝熊は笑った。芳養がギョッとして、朝熊から一歩退いた。 「王よ、それもいいのではありませんか。この世に恒久的なものなどありはしないのです。奈半利の一族が我らに取って代わる、それもこの世の流れというものでしょう。だいたい、我らの地位が何だというのです。そうではありませんか。伊勢が滅んだとしても、この世の行末が変わるわけではない。王よ、私は、倭の肩に伊勢の運命を背負わせることを認めるわけにはいきません。まして伊勢の繁栄のために、倭を巫覡を生むだけの道具にすることなど。再度申しますが、私がお守りするのは倭姫だけです。この伊勢の一族がどうなろうと、私には全く関係ありません」 「お前、誰だ」 芳養は本心からそう言った。朝熊は、冷たい眼差しで芳養を射抜くと、 「私は、朝熊。この世に倭姫がある限り、私は、彼女の守り人」 と言って、芳養の前から姿を消した。 冷たい風が芳養の心の中にも吹いていた。今度は本当に一人になって、芳養はふうっと深い溜め息をついた。 「巫覡……、賭はまだあったのか……」 そう呟きながら、芳養はその場所から出た。伊勢の王祖の時代から、ずっとその場所には巫覡がいた。そして、始めて今、その場所の住人がいなくなった。当たり前だと思われていたことが、当たり前ではなくなったのだ。だが、芳養には何もすることが出来なかった。 「私は、ただ単に、伊勢の王だから」 自嘲めいた口調で芳養は呟いて、ぴったりと戸を閉めた。 今、水色の光はなくなった。 それを知っているのは、まだ三人しかいなかった。
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