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ときおり、ポチャンと音が聞こえてきた。朝熊は、倭がいると思われる場所に向かっていたのだが、やはりそこにいたのか、と音のするほうへと少し歩を早めた。
「倭」
朝熊は優しく呼び掛けた。倭は川岸に座って石を放り投げている。倭は心乱れる時に、よくこの川岸に座って川面を見つめていることが多かった。だから、朝熊はここに来たのだ。倭は朝熊の声が聞こえなかったように、その行為を止めなかった。
「倭、五十鈴川を、結界を乱すな」
その言葉に、倭はハッと手を下ろした。その側に朝熊は座った。
「朝熊」
と言って、倭は朝熊を見上げた。その額の勾玉は、すでに半濁の緑色に変わっていた。朝熊のそれは、同じように半濁の緑。倭のほうが少し青みがかっているところが違っていた。
「どうせ、聞いていたんだろう」
倭の生まれた時からずっと側にいる朝熊だった。倭には気配すら感じさせなかったが、朝熊はいつも倭の側にいた。だから、さっきも側にいたはずであった。
「すべて」
朝熊は優しく微笑んだ。それに対照的に、倭は顔を曇らせた。
「倭、浮かない顔をするな。腹は決まっているんだろう。ならばそれに向かって歩きだせばよい」
そう言って、朝熊は倭に手を差し出した。倭は当然のようにその手の上に二つの勾玉を置いた。
「巫覡の置き土産か。たぶん、肌身離さずに持っていたほうがいいな」
そう呟いて、しばらくの間五十鈴川に手を浸していた。そして、倭の両耳にそれをつけた。
「倭、それがお前の側にあるかぎり、巫覡は側にいる」
倭の両耳に、鈍い光を放っているピアスがあった。
(それが、いいことか、悪いことかは判らないが……)
朝熊が心の中で呟いた。
「朝熊、判っている」
倭は立ち上がって、目の前の五十鈴川を見つめた。
静かに静かに、伊勢の結界である五十鈴川は、その清流をずっと変えずにきた。伊勢が生まれてからか、生まれる前からか。
「私に、伊勢など背負えない。だが、透明の方を探すことはしなければならない。きっと考えるのはそれからでいい」
「それでいいんだ、倭」
朝熊が倭の側に、それが当たり前のように立っていた。
倭は一歩、五十鈴川に足を踏み入れた。その冷たさと、まぎれもない淋しさに、背を震わせた。その肩をそっと朝熊が抱いた。
「倭、伊勢から出るのは、始めてだったな。伊勢の結界の中では、我らはそれに守られている。だが、一歩そこから出ると、己の力でしか己を守ることが出来ない。それを、忘れるな。ただ、私がいるかぎり、お前を守っていることも、忘れるな、倭」
「判った」
と倭は短く答えて先に進もうとした。その体をひょいと朝熊が抱え上げた。
「あ、朝熊、私は一人で歩けるぞ。下ろせ」
朝熊はクスッと笑った。そして軽く地を蹴ると、難なく向こう岸に渡った。
「このほうが早い。それに、服を濡らさずにすむ」
そう言って、朝熊は倭を下ろした。
「じゃあ、私が足を濡らす前にそうしろ。それに、私だってそのくらいのことは出来る。朝熊の手を借りずとも」
倭は不機嫌な顔で言った。朝熊は声も立てずに笑った。
倭が生まれた時からずっと側にいる朝熊であった。だが、甘やかしているつもりはなかった。事実、朝熊は倭の守り人だが、倭に出来ることは、すべて彼女の手でやらせた。だから、確かにこの川を飛び越えることなど、倭に出来ないはずはないのだ。
朝熊にとって倭は、本当に教え甲斐のある生徒であった。自分の身を守れるようになるまでに、それほどの年月を割くことは必要ではなかった。だが、朝熊にとって倭を守る、ということは、安芸から頼まれただけの使命ではないのだ。自分は、倭を守り通すことが出来ると思うことが、その確信さが、朝熊が倭を愛していることの証になるのだ。愛している、という言葉は、決して口にすることが出来ない。それは、朝熊の心の奥にだけしまっておく言葉なのだ。
倭は傍系とはいえ、王族であった。だから、朝熊などに手に入る女性ではないのだ。それを朝熊は判っていたから、倭が他の誰かを愛するようになっても、《倭の守り人》という自分の立場を捨てる気はなかった。
朝熊は倭の守り人なのだ。そう考え続けることによって、倭への愛情を殺し続けたのだ。
だから、朝熊はたまに過剰に倭を守り過ぎてしまう。そして、倭は不機嫌になるのだ。いつまでも子供扱いされている、と思って。もちろん、本気ではないにしても……。
「倭、ここからは伊勢の結界の外だ。自分の五感だけが頼りの世界」
「判っている」
不機嫌な表情を消して、倭は言った。
生まれてから18年の間、倭は伊勢から出たことがなかった。外の世界がどんなものか、知識としてはあっても、その目で見たことはないのだ。
「朝熊は、伊勢から出たことはあるんだな」
促されて歩き出した倭は、当たり前のように隣を歩きだす朝熊を見上げて言った。
「ああ」
朝熊は25歳であった。
「倭には香春をつけて、たまに外に出る。倭が外の世界に出た時に、多少なりとも戸惑いたくないからね」
冗談ぽく朝熊は言った。それが冗談ではないのだと、朝熊をよく知っている倭は判っていた。
「そうか。では、朝熊は迷うことはないというわけだな。頼りにしているぞ」
こちらは本気の表情で倭は言った。
「もちろん」
朝熊が倭の頭をポンと叩いた。
「そうか。お前がいない時は、香春がいたんだな。道理で、感覚が違うと思った」
香春とは、朝熊の弟であった。今年、20歳の香春は、朝熊から見ると、まだまだ未熟者であった。倭の言葉からそれを確信させた。
「倭にそう思わせるほど、香春は未熟だったか。これは、一言、言ってくるべきだったかな」
「あ」
と、倭がいきなり声を上げた。
「どうした」
「父上にも、母上にも何も言わずに出てしまった。それに、王にも……」
顔色を変えて言う倭に、朝熊は首を振ってみせた。
「それは必要ないのだ。倭が今日、伊勢から出ることは、王には判っていたこと。それに、倭のご両親には私から伝えておいた。主命を受けて、しばらく留守をすると」
「そうか」
朝熊の言葉に、ホッと倭は吐息を落とした。
「お前も、自分の家には言ってきているんだな」
倭の言葉に、しかし、朝熊は反応しなかった。
「朝熊?」
「ああ、私はいいんだ」
と言って、朝熊は口を噤んだ。それは、まぎれもない拒否であった。倭はこれ以上何を言っても朝熊が自分の意志を変えることがないのを知っていた。
「行くぞ」
倭は頭を切り換えた。朝熊のことは朝熊のことであった。自分がとやかく言うことはないのだ。倭にはすべきことがあるのだ。
「ああ」
そう言って、朝熊はすっと隣についた。
「でも、どこへ」
倭が朝熊を見上げる。朝熊が頷いて、
「東京へ。おそらく、何かの鍵がそこにあるはずだ」
と言った。その確信に満ちた口調を、だが、倭は不思議だとは思わなかった。朝熊の勘は外れたことがないのだ。
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