終 章
秋であった。石谷忠敏は部屋の中から庭を見つめていた。今年はさらに色鮮やかに楓が色づいている。折られた枝も不思議に元通りにつき、他の枝の葉はそれを守るように回りにあった。
ふと、脳裏にその楓にふさわしい面影を浮かべて、そして忠敏はその姿を楓の隣に見つけた。ハッとして立ち上がる忠敏の目に、その姿がふわりと消えた。忠敏は呆然とそこに立ち尽くしていた。
しばらくして石和がそこを通りかかった時、忠敏は一心不乱に筆を走らせていた。
後に、瑞浪という名の、三十過ぎで若くして亡くなった絵師の、少年の時の姿がここにあった。短い生涯に描いた絵画の数は多いものだったが、その中でも、『冬隣』と名づけられた楓の絵は、見る人を妖しの世界に引き込んだ、と言われた。楓の隣にたたずむ青年の絵、だがしかし、それは大火に焼かれ、その絵を見た人もやがて亡くなり、そして今では、瑞浪の名さえ忘れ去られているのだ。
忠敏の一心不乱に筆を動かす姿を、遠くから二人の影が見つめていた。忠敏がしかし、その『冬隣』を完成させたのは、ずっと後のことであった。彼らはその絵を見ることなく、忠敏の生涯が終わるのを見ていたのだった。
「それは昔の物語。語り部のいない物語」
「夢幻のごとくなりき冬隣」
一人の少女と一人の青年が呟いてそこから姿を消した。初鹿野の未来を映す札には、何が見えたのか。二人きりの初鹿野はそこで別れ、彼らの生涯が終わるまで、彼らは再び出会うことがなかった。
ただ、梅雨の合間の晴れた日に、その場所に一束の線香が供えられる。それを誰が供えるのか、誰に供えるのか、誰にも知られることはなかった。細い煙は何も語らず、ただゆらゆらと空に消えていくだけであった。
−完−
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