梅雨が明けたある日、一丁の駕籠が京へと向かっていた。中にいるのは親子であった。つき従うのは沢渡と、新城幸綱と温田重行の三人であった。幸綱と重行は、今回のことを詳しく教えてもらってはいない。それは知ってはならないのだ、と二人とも判っていた。この二人が江戸に戻ると、雪絵との婚姻が待っているのだが、そのことも、どちらが雪絵を娶ることになるのかを、まだ二人は知らされていなかった。
 親子は僅かな隙間から見える青空に目を向けて、京への道のりを静かに過ごしたのだった。

 文久元年十月二十日、親子は京を発つ。十一月十五日に江戸に入り、まず清水邸に落ち着いたのだった。そして十二月十一日、大奥へとその一歩を踏み入れた。
 翌文久二年二月十一日、十四代家茂との婚姻を無事に終えた親子は、しかし、その四年後に髪をおろすことになる。それ以後、静寛院と名乗り、徳川家存続のために動いたことは周知のことであろう。そして、親子が僅か三十二歳の若さで亡くなったのは、新しい世に代わって、十年あまりしか経っていなかった。



←戻る続く→