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翌日、沢渡は唐の部屋に行った。そして黙って唐の前に座る。唐は無言で沢渡を見ていた。
「唐様」
しばらく見つめ合っていたが、沢渡が口を開いた。唐は黙ったままであった。
「お別れじゃな」
そう言って沢渡は立ち上がった。唐がにっこりと笑った。
「今頃聞くのも変じゃが、竜王を殺したのは唐様じゃな」
唐がスッと表情を変えた。だがすぐに笑いを浮かべる。
「それがどうかしたのか、おばば」
冷たいとは全く逆の口調で、そして表情で、唐は沢渡の前にいた。沢渡は吐息を落とす。
「唐様は本当に姫宮様を守りたいと思っておったのか?」
沢渡の言葉に、唐が眉をひそめた。心外だ、という表情にもなる。
「唐様にとって、姫宮様は可愛らしい玩具だったのではないのか」
「それで?」
「わしは、唐様の気紛れが姫宮様を傷つけるのを心配しておった。だが、それより前に宮様のほうがそれに気づいた。唐様が姫宮様の気持ちをもてあそんでいることをな。そして、唐様はそろそろ姫宮様に飽きてこられた。それにも宮様は気づかれたのじゃな。だから、急がれた」
「それで?」
唐の顔には笑みしか浮かんでいない。沢渡は重く首を振った。
「いまさら、何も言えぬ。お前たちを育てたのは、お前たち自身とそれと、このわしじゃからな」
「おばば、話はそれだけか」
唐がにっこりと微笑んだ。沢渡が思わず一歩下がる。
「じゃあ、お別れだな」
唐がふわっと沢渡に近づいて、その近づくのが判りながら、沢渡はその場を動けなかった。沢渡の喉に向かって、唐の手刀が伸びる。それが沢渡の喉を貫く前に、沢渡の前が暗くなって、ピシッという音が響いた。沢渡は目の前に立ち塞がっている背中を驚いて見つめた。
「誰だ、お前」
唐が男に腕を掴まれたまま言った。唐の顔から笑みが消えている。ピピッと小さな音がして、腕を離された唐が畳の上に膝をついて唸った。
「両腕の筋を少し切った。当分使い物にならない。元のように使いたかったら、相当の訓練をするんだな」
唐が腕を押さえたまま、ゆっくりと立ち上がった。脂汗を流しながら、それでも僅かに笑みを浮かべた。
「お前、名前は?」
「とりあえず、明石」
「覚えておこう。いつか、お前を殺してやる。それをお前も忘れるな」
「いいだろう。私の時は長い。相手をする暇は充分にある。退屈せずにすむ」
唐は沢渡に笑いかけた。いつものように邪気のない、本当に優しい笑みであった。それを沢渡に向けて、そして何も言わずに去っていった。沢渡は目の前に立ち塞がった背中を見つめていた。
「待て」
沢渡に顔を向けないままに去ろうとする明石と名乗った男を、沢渡は呼び止めた。明石は沢渡を見た。
「お前は、宮様と京で出会ったな」
頷いて明石はそのまま去ろうとした。だが、すぐに沢渡の前にひざまずく。驚いて沢渡がその前に座った。明石が顔を上げて、そして改めて頭を下げた。
「沢渡様、このようにお会い出来て、嬉しく思います」
沢渡が目を見張る。自分はこの男を知っていなければならないのか、いったい、明石は何者なのか。
「明石、と言ったな。わしを知っておるのか?」
明石は顔を上げた。
「沢渡様が私を知らないのは、無理もないことです。沢渡様が物心つく頃には、私は里を出ていましたから。私は初鹿野の一人」
沢渡が思わず相手を見直す。
「明石と名乗ったのは、仮の名。私は奉純と言う名前です」
沢渡はハッとした。
「その名は聞いたことがある。お前がその奉純なのか? 本当に初鹿野は、わし一人ではないのじゃな」
「お探ししておりました。里を訪ねてみると、すでに何もなく、長たちの身を案じておりました。里を出ていった私が、長たちの身を案じるなど、おこがましいことだと思いましたが……。こうして、沢渡様を探し当てることが出来て、私は嬉しいのです。長よ、初鹿野の里を復活させましょう」
沢渡はジッと奉純を見つめて、そして首を振った。
「初鹿野の里は、すでになくなったのじゃ。そして、初鹿野もわしとお前の二人だけ。初鹿野として生きることは、必要ない。わしらは、普通の人間として生きていけばよいのじゃ」
奉純は目を伏せた。
「お前もそれを判って今まで生きていたはず。わしが見つかったからと言って、その心をねじ曲げることはない」
「沢渡様」
「奉純、父上も母上も生きていたら、同じように言うと思うぞ。少なくともわしよりは、お前のほうが、父上たちに接した時間は長かったはず。わしには、ほとんど父上や母上の記憶がないからな」
沢渡が奉純の肩に手を置いた。
「わしらは、ただ単に普通より、少しだけ長い時を生きなければならないだけじゃ。奉純、お前の伯父もその苦しみを受け止めるために、里を出たはず。お前もそうではないのか。わしのことは気にせずともよい」
「長……」
奉純が沢渡を見つめた。沢渡が微笑む。奉純はその目元に笑みを浮かべて、
「長も、お一人でないことを忘れないでください。初鹿野に生まれたことを誇りに思って、私は明日も生きるでしょう。それが伯父と私の違うところ」
と言った。そして立ち上がる。沢渡の目に見送られて、奉純は去っていった。
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