「宮お兄様、何があったのです? それは、私のためですか?」
 宮がニッと笑う。
「親子、お前は私がお前のために何かすると思っているのか。聡明なお前には、私がお前を守ろうと思って江戸に来たわけではないことは判っているはず」
 ハッとして親子は目を伏せた。宮は茅野を膝の上に抱えた。
「お前は間もなく京へ戻らねばならない。内親王として十四代に降嫁するために、そして再び江戸に来るために。それがお前の使命だ。だから、私たちのことは忘れなければならない。江戸で会ったことも、四年前に会ったことも、すべて。私たちは二十二年前に死んでいるのだから」
 親子がキッとなって顔を上げた。
「お兄様ですわ。私のお兄様なのですわ。生きておられるのに、どうして忘れなければならないのですか。私は忘れません」
 宮が冷たく親子を見つめた。その冷たさが親子の心に氷のように突き刺さる。
「親子、唐を兄と思っているのか」
 宮の言葉に親子はえ? と不思議そうな顔をする。
「お前の京での生活がどんなものなのかは知らない。だが、これは推測に過ぎないが、唐のように接してくれた人がいなかったのだろう」
 親子は目を見張った。宮が茅野に目を落とした。
「お前が唐を兄として慕うのは、しかたないと思う。そして、それ以上の相手として見るようになったのも、しかたないと思う」
 ポツリと付け加えた言葉に、親子は息を止めた。
「私には何も言えないから」
 宮がゆっくりと目を閉じた。ハッと親子が宮の肩に手を掛けた。
「宮お兄様、しっかりしてください」
「親子、お前がそれを犠牲だと思うのなら、無理にそれに従うことはない。だが、お前自身の立場も考えて……いや、こんなことを言うべきではないな」
(こんなことを言いたいのではない。私は何故わざわざ親子に会いに戻ってしまったのか……。私が言いたいのは……)
 と宮が口の中で呟いた。親子が顔色の全くない宮に、自身も顔色をなくす。その時、障子が開いて沢渡が入ってきた。
「宮様……」
 宮を一目見て悲痛な表情になった沢渡であった。その後から唐、春獄、駄科、忠順、慶喜が続いた。
「おばば様、宮お兄様を助けてください。おばば様には出来ないことはないでしょう」
 親子が涙に濡れた顔を沢渡に向けた。沢渡が宮の隣に座って首を振る。そして、
「宮様」
 と呼び掛けた。宮が目を開いて回りを見渡す。それぞれに僅かな時間だけ目を向けて、沢渡を見た。
「おばば、私一人だ。高くはなかろう」
 そう言って宮はニッと笑った。
「宮様、何故無理をなさった。もう二、三日待てば、このように出血することなどなかった」
「何故か、か。私にも判らない。でも、どうしても今しておきたかった。いや、今でなければならなかった。理由をつければそんなとこかな」
 そう言って、宮は唐をチラリと見た。
「……変わられたな、宮様は」
 宮は口の端を上げた。
「そうだな。今、自分でも気づいた。こんな生き方をするはずではなかった、と以前の私なら言うだろうな。おばばの札通りか、私は?」
 老婆は、
「いや」
 と言った。
「それではおばばの信条が崩れるな。運命とは動かぬものではなかったのか?」
「わしの信条ではない。それが世の常だからだ。それに運命という言葉は嫌いだ」
 ムスッとした沢渡に、宮が笑った。そしてすぐに笑いを消した。
「おばば、では、私は早かったのか、遅かったのか」
「それは札通り、と言うしかあるまい。終わり方は違ったが、時は過ぎても残ってもいない」
 宮が目を閉じた。
「そうか、残念だな。もし、残っていたら親子にあげようと思っていたのに。なあ、おばば、本当に残念だ」
「宮様……それは」
 沢渡が驚いて目を見張った。宮がそれを言う意味は何なのか。宮は何を言いたかったのか。
「親子」
 突然呼ばれて親子は顔を上げた。宮が忠順を指さした。
「親子、あれが石谷忠順だ」
 そう言われて親子は忠順に頭を下げた。慌てて忠順も頭を下げる。
「石谷は、親子の母に」
 と言いかけて忠順を見る。忠順は宮をジッと見ていた。宮は親子に目を向けて、
「お前の母に弟のように可愛がられたということだ。母親の話を聞かせてもらえ」
 と微笑んだ。親子の頬をスウッと涙が流れた。
「お兄様、初めて私に微笑んでくださいましたわね。やっと、私はお兄様の本心を見ることが出来ました。今になってやっと……」
 宮が首を振る。
「親子、それは誤解だ。私は何よりも大切なものを、自分のものに出来なかったことを悔やんでいるだけだ。いまさら何もすることが出来ない自分を呪わしく思っているだけだ。私は忘れ物を届けてそれでお前の前から姿を消すつもりだった。こんな告白をするはずではなかった。私は自分を弁護するつもりはなかった。私はいったい今何を喋っているんだ。別れると言うことは、これほどに饒舌を好むのだろうか……。親子、お前の…私は……」
 だんだんと小さくなっている宮の言葉に、親子が宮を抱き締めた。ゆっくりと宮の目が閉じる。茅野が宮の髪を引っ張る。キキッと鳴く声に親子が茅野を見ると、茅野は親子を見て涙を零した。
「茅野……」
 親子が茅野に手を伸ばした時、再びキキッと茅野は鳴いてそのまま障子を突き破っていった。
 いきなり、雨の音が激しくなったように思ったのは、その場にいた全員かもしれない。
 親子が宮の頬にそっと触れる。
「姫宮様、宮様は亡くなられた」
 親子がいきなり宮を再び抱き締める。声もなく親子の肩が震えていた。
「姫宮様、宮様は忘れ物を届けるために戻ってきたのじゃ。それは受け取られましたかな」
 沢渡が親子を宮から離した。
「きっと、宮様のことじゃ。はっきりとは言わなかったかも知れぬが……」
 親子が涙を拭って首を振った。
「いいえ。私には判ります。お兄様が届けてくださった忘れ物の意味を。そして、お兄様が私を本当に愛してくださっていたことも。今の私には判ります。でも、お兄様はもうおられないのですね。こうなるまで私は何も気づかなかったのですね。おばば様、お兄様は……」
 親子が一度目を閉じて、そして目を開いた時には、少女の顔ではなかった。
「おばば様、私は京へ戻ります。再び、江戸に来るために。十四代の元に降嫁するために」
 沢渡が頷いて、親子がスッと立ち上がった。
 雨はまだ降り続く、梅雨の最中であった。



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