春獄の屋敷。
 昼前から再び降りだした雨に、親子はふてくされた顔になった。梅雨なのだからしかたない、とは判っているが。
「姫宮はもうすぐ京へ戻らねばならないのだな」
 今朝、沢渡を探して唐の部屋に行った時に、唐にそう言われた。それを思い出していた。
「お兄様は一緒に来ていただけないのですか」
 それが可能なはずはないと判っていても、親子はそう聞いていた。離れたくなかった。生まれてこの方、唐のように接してくれた人はいなかった。生まれる前に父親は死んでいた。母親は四年前に亡くなった。兄に当たる人も、姉に当たる人も、どちらとも、いや、お互いに他人行儀にしか会ったことがない。回りの人にしても同じであった。親子はここに来て初めて、優しく接してくれる人に会えたのだった。別れてしまうと、もう二度と会えなくなる。京も冷たかった。だが、再び江戸に来たとして、それよりももっと冷たい環境に親子は入らねばならないのだ。
 唐が親子に笑いかけた。親子は何も言わずに唐の部屋を出ていった。
「おばば様は宮お兄様とご一緒なのかしら」
 親子は呟いていた。けっきょく、沢渡も宮も姿がなかったのだ。
 ガサッと音がして、親子はそちらを向いた。ゆっくりと近づいてくるのは、宮であった。親子が立ち上がって廊下に出る。
「宮お兄様、どうなされたのですか」
 宮の顔色が悪いことに、近づいて判った。茅野が肩の上で心配そうに宮を見ている。
「もう二度と、お前の前に姿を現さまいと思っていた」
 親子のすぐ側に立ち止まって宮は言った。茅野が飛び下りて、親子をジッと見上げる。その哀しそうな表情に、親子は不安になった。
「だが、忘れ物を思い出した」
 宮がそう言いながら、ふらりと倒れかかる。慌てて親子は宮を支えた。そしてその左腕に気づく。さらにぬるりとする感触にも。雨ではなく、もっと粘いものに。
「宮お兄様……これはいったい」
 親子が必死に宮を抱えていた。宮は自力で立ち上がると部屋に上がって、柱に背をもたれて座った。茅野がその側に寄って親子を振り返る。
「おばば様を呼んでまいりますわ。おばば様を」
 宮が大きく息を吐いて、
「おばばは町奉行石谷忠順の屋敷にいる。おばばを呼ぶのなら、石谷も一緒に来るようにと言ってくれ」
 と言った。親子はえ? という顔をしたが、すぐに頷いた。唐が使いに走った。
「宮お兄様、すぐにおばば様が戻ってまいりますわ。それまでしっかりしてくださいませ」
 親子が戻ってきて宮の側に座った。その後に春獄が姿を見せたが、宮が、
「すまないが、親子としばらく二人きりにして欲しい」
 と言って、春獄は去っていった。


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