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宮はハッと足を止めた。そこに人がいるのに気づかなかったのだ。油断していたわけでもない。確かに少し貧血気味になっているが、それが原因とは思わなかった。相手は庭の楓の前に立っていた。少年であった。宮が近づいていっても、ボーッとしているのか、こちらを見ようともしない。宮は少年の視線の先に目をやった。 「枝が折れているのか」 いきなり宮が声を掛けても、少年はびっくりした様子も見せず宮のほうを向いた。そして、少し首を傾げて茅野を指さした。 「折ったのは、その子?」 今度は宮が首を傾げた。少年がすうっと腕を動かした。 「父上の書室に行くには、どうしてもここを通らなければならない」 宮がハッとする。少年は再び楓に視線を戻して溜め息をついた。 「残念だな。今年こそはこれの美しさを描けると思っていた。この庭の中で、この楓のこの枝が一番美しいのです」 そう言って少年は残念そうに首を振った。宮が少年をまじまじと見る。 「お前は石谷の息子か?」 少年が宮を眩しげに見つめた。 「はい。石谷忠敏と言います」 忠敏はさらに続けた。 「私は夕べの出来事を知ってはならないのですね」 宮は忠敏をジッと見ていた。 「知りたいか?」 忠敏は即座に首を振った。 「私が知らなければならないことなら、石和や父上が教えてくださるでしょう。ですが、石和は何も言わなかった。つまり、聞いてはならないということなのです。それに、私は石谷忠順の不肖の息子ですから。絵を描くことしか能のない」 忠敏はそう言ってニコッと笑った。 「何故、隠す?」 忠敏が首を傾げた。 「私は石谷忠順の息子です。異常なほどの出世をしている」 忠敏の表情は真剣で、思わず宮は目を見張っていた。忠敏がまたニコッと笑う。 「隠しているわけではありません。私は絵を描くことが大好きなだけなのです。それが私の地なのです」 宮は茅野の首の紐を外して忠敏に渡した。そして自分は右手で楓の枝を持つ。 「その紐で折れたところを括るんだ。上手くいけば秋にはまた美しい楓が見られるかもしれない」 忠敏はパッと喜色を浮かべて紐でしっかりと括った。そして宮をジッと見上げた。 「秋にまたお会い出来ますか」 宮が忠敏を見る。 「今年こそは、この楓を描くことが出来ると感じました。そして、あなたの側で、あなたに映えて、あなたも映えて、この絵が完成するのです。どちらか一つが欠けても困ります。私にあなたを描かせていただけませんか」 宮は首を振りかけて、忠敏の真摯な目に頷いた。 「この楓が一番美しい時に、私が忘れていなければ、お前の前に姿を現そう」 忠敏が嬉しそうに笑った。宮が歩き始めて振り向いた。 「私の名は、宮」 そう言い残して、宮は立ち去った。忠敏はその背が見えなくなるまでジッと見つめていた。 「若」 いつの間にか、忠敏の側に石和の姿があった。 「石和、父上のお加減は良くなったのか」 石和がホッとした表情で、 「はい、先程起き上がられた姿を拝見いたしました」 と言った。 「そうか」 と忠敏は呟いて、脳裏に宮の姿を浮かべていた。忘れるはずはないだろうけれど、忘れないように、心に刻みつけるように、忠敏は宮の姿を思い続けていた。
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