さて、忠順の書室では。
 沢渡は吐息を落として、
「とりあえず、忠順殿は大丈夫じゃな」
 と言った。その言葉とは裏腹に沢渡の表情には暗い翳が宿っていた。沢渡の痛々しげな視線が宮のほうを向いた。忠順に並ぶように宮も床に入っている。宮の顔色はなく、呼吸も気をつけていないとしていないように、深く長いものだった。茅野が宮の枕元にチョコンと座って沢渡を見上げる。
「大丈夫じゃよ、茅野」
 沢渡は茅野に笑いかけた。茅野はホッとして宮に視線を戻した。沢渡がまたスッと表情を暗くする。
「宮様」
 と呼んでも全く反応を示さない。沢渡は立ち上がって障子を開けた。そして眩しげに庭を見る。
(後は宮様の体力次第……。だが、二、三日は動けまい)
 青い空を隠すように、また雲が立ち込めてきた。
(宮様はどうして忠順殿を……それは、やはり……。今はもうない、初鹿野の里へ帰ることが出来たら、沢渡姫の素顔のままで生きることが出来たら)
 沢渡が苦笑する。どちらも自分から捨てたわけではない。だが、それを受け入れたのは自分自身だ。過去にすがって生きることも、未来を夢見ることも、それを受け入れなかったのも自分自身。それに対して、責任を持つことはない。そして、他人を責めることは出来ない。すべては自分に帰着するのだから。
「おばば」
 という声で沢渡はハッと振り返った。そして宮の側に駆け寄って座った。宮が薄く目を開いて、
「石谷は無事か?」
 と言った。沢渡は頷いた。宮は髪を引っ張る茅野に気づいて、
「茅野、心配してくれたのか」
 と笑いかけた。茅野がキキッと鳴いた。宮が起き上がろうとして僅かに眉をひそめる。沢渡が、
「宮様、二、三日は動いてはならない。毒はまだ抜けてはおらぬ」
 と言った。宮は沢渡の言葉に構わず起き上がると、ニッと笑った。
「どうやら、毒はここだけに固まってくれたようだな」
 と宮は左腕を指さした。
「二の腕の感覚はまだあるが、肘から先は全く駄目だ」
 沢渡は宮をジッと見つめる。宮の表情は悲壮感など全くない。それが沢渡には信じられない。自分の左腕が元通りにならないことなど判っているはずなのに。宮が沢渡を見て、
「おばば、代償がこの左腕一つでは安過ぎるか?」
 と笑った。その皮肉った笑いに、沢渡は真剣な顔で首を振った。
「宮様」
 と言いかけた沢渡には構わず、枕元に置いてあった緋色の紐を取ると立ち上がった。そしてくるりと沢渡に背を向ける。宮の行動を見ていた沢渡が、ハッとして叫んだ。
「止めるのじゃ、宮様、それでは……」
 沢渡の叫びも虚しく、ヒュッと空気を切る音がして、ドサッと重いものが落ちる音がした。その音で忠順が目を覚まして起き上がる。
「宮様……」
 と言ったまま忠順は絶句してしまった。ゆっくりと膝をついて宮が沢渡を振り返った。
「おばば、止血だ」
 沢渡が慌てて宮の側に寄る。忠順は呆然としてそれを見つめていた。
「宮様、無茶をなさる。これ以上の出血はわしにも責任は持てぬぞ」
 宮が笑って、
「別におばばに責任を取ってもらおうと思ってはいないから安心しろ。ただ単に左腕が壊疽を起こしていただけの話だ。それを落としただけのこと。当たり前のことをしただけのことだろ」
 と言い、止血が終わったのを見届けると立ち上がった。茅野が右肩に駆け上がる。
「宮様、どこに行きなさる? 今、動かれたら」
 沢渡が顔色をなくしていた。それでなくとも、動けるような状態ではないはずなのに。
 宮が庭に視線を向けた。
「忘れ物があった。何があろうとも、それだけは届けたい」
 ポツリと宮が言った。沢渡が声を掛けられなくて、その間に宮は部屋から出ていった。
(宮様は……)
 沢渡が忠順に目を向けた。忠順は呆然とした表情からやっと解放されていた。
「あの、沢渡殿、何があったのだ? 私はどうして……」
 沢渡が首を振る。
「私に話していただけないだろうか」
 忠順の言葉に沢渡は目を伏せかけて、
「よかろう」
 と言った。



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