石和は忠敏の部屋に近づいていった。忠敏は忠順の一人息子で今年十三歳になる。その姿を石和は縁側に見つけた。忠敏は座って軒先から落ちる雫をジッと見つめているようであった。
「若、おはようございます」
 石和が呼びかけると忠敏が顔を向けて笑った。
「夕べはかなりひどく降ったな、石和。ひどい音だった」
 石和が忠敏の隣に座った。
「そうですね」
 忠敏は庭へ視線を向けたが、ボーッとして何を見ているのか見ていないのか、判断がつかない表情をしていた。
「若、さあ中へお入りになってください」
 石和が忠敏の肩に手を置いた。忠敏がパッと立ち上がって、
「父上に朝の挨拶をしてくる」
 と歩きだそうとした。石和が慌てて忠敏を止めた。
「お待ちください。殿は少しお加減が悪く、臥せっております。本日のご挨拶はご遠慮ください」
 忠敏が首を傾げて、
「大事ないのか?」
 と聞いた。石和は頷いた。そうか、と忠敏が呟いて座り直した。そのまま黙って庭を見つめている。
「若……」
 と石和がいぶかって声を掛けた。
「私には夕べの出来事は内緒のことなのだな」
 忠敏が視線を動かさないまま言った。
「は?」
 石和は内心ドキッとして忠敏の横顔を見る。
(まさか、ご存知なのか? いや、そんなはずはない。たまに若は気紛れにものを言われるから……)
「あの楓の枝が折れていた。父上の書室に行くには、必ずここを通らなければならない」
 石和は忠敏の言葉にはて? と思った。それがいったい何なのか? と石和は忠敏の膝の上に置かれている手に気づいた。袴をギュッとそれこそ引き裂かんほどの力で握っていた。ハッとして石和は忠敏の横顔を見直した。忠敏の表情は変わりなくボーッとしていた。
「あの楓は本当に美しくて、気に入っていたのにな」
 呟くように忠敏は言う。石和は一瞬表情を変えてそして忠敏を抱き締めた。驚いて忠敏が石和を見る。
「若、さあ、お部屋に入ってください。石谷家を背負っていかれるのは、あなたなのですから」
 石和は忠敏の肩を掴んで言った。
「石和……」
 忠敏は目を丸くしていた。石和は忠敏を抱き抱えるようにして部屋の中へと入った。
(私たちはいったい何を見ていたのだろう)
 忠敏はいつもボーッとしていて、勉学にも武道にも身を入れることがなかった。唯一気に入っているのは絵を描くことぐらいで、忠順も石和も、以前は厳しくしつけようとしたのだが、今ではすっかり諦めていたのだった。表面上だけを見て、石和は忠敏が忠順の息子としては不足なことが辛かった。そうだと思っていたのだ。
(私は……若は愚鈍なわけではないのだ……それを私たちはずっと気づかなかったのだ)
 あるいは、気づかせなかったのか。それでもいい。石和はこの時嬉しかったのだ。やはり、忠敏は忠順の息子なのだと。
「今度こそ描けると思っていたのにな」
 忠敏が部屋に入って振り返って言った。石和は思わず顔を綻ばせていた。



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