次の朝、すでに雨は上がり、雫がキラキラと光っていた。部屋の前には石和の姿はなく、代わって茅野がチョコンと座っていた。心配そうに障子を見つめているようだった。部屋の中はシンとして、僅かな物音もしない。
 やがてお盆を持った石和が現れて障子の向こうに呼びかけた。
「朝食を持ってまいりましたので、どうぞ、お召し上がりください」
 少しして障子が少し開いた。沢渡がそのお盆を受け取って
「茅野」
 と呼んだ。茅野がサッと部屋に入る。石和が沢渡を見つめた。一晩でこれほどに疲労するだろうか、というほどの衰弱ぶりであった。沢渡はニコリともせずに、
「石和殿、石谷殿はもう心配ない。だが、まだ部屋に入ることはならぬぞ」
 と言って障子を閉めた。石和が声を掛けることなど全く出来ないタイミングであった。石和は頭を深く下げる。震える声で、
「ありがとうございました」
 と言うとそこから去っていった。石和はただの忠順の手の者、というわけではない。だから、忠順のことだけに心を割くことは出来ないのだ。忠順の一子、忠敏の世話も石和の仕事であった。
「石和、お奉行の具合はいかがか?」
 忠敏の部屋に向かっていた石和は、途中でそう言って呼び止められた。石和は振り返りながら、
「大事を取って休んでおられるだけです、新城殿、温田殿」
 と言った。そこにいたのは、新城幸綱と温田重行の二人であった。
「そうか」
 と二人はホッとした顔になった。
「それからお二人には本日より定回りに戻っていただきます」
「えっ」
 石和の言葉に二人は驚いて相手を見つめた。
「それは……もう、あの件は解決した、ということなのか?」
 幸綱が言う。
「後日、殿のほうからお話がございます。その時にお聞きください」
 と石和は頭を下げて去っていこうとした。ああ、と思い出したように振り返ると、
「それから奥には決してお入りにならないように。もし、入られた時の保証はございません」
 と言った。
「それはいったい……」
 と重行が言いかけたが、石和の鋭い目つきに、幸綱とともに動けなかった。では、と石和がもう一度頭を下げて、今度は去っていった。
 少ししてフウッと二人して息を落とす。そして顔を見合わせて互いの強張った顔に驚いた。
「何があるんだろう」
「さあな。ただ、確かなことは、石和は本気だった、ということだな」
 そう言って重行は歩きだした。つられるように幸綱もその後を歩く。二人とも考えながら歩いていたので、廊下の角で反対側から来た人にぶつかってしまった。重行がとっさに相手を支えて、
「雪絵殿」
 と声を上げた。
「新城様も温田様も、深刻な顔をなさってどうされたのですか」
 にっこりと笑って雪絵は言った。重行は、
「赤木様にご用ですか。雪絵殿、私が案内いたしましょう」
 と言っていきなり顔をしかめた。それをおかしそうに見て、
「判っておりますから。ありがとうございます」
 と言って雪絵は去っていった。雪絵が見えなくなると、重行は幸綱を睨んだ。幸綱が笑って謝る。
「足を踏んだのは、悪かったと思っているさ。でも、抜け駆けは許さないからな」
「判ってるさ、もちろん」
 重行がムスッとして歩きだした。幸綱もそれに続く。雪絵は与力赤木の娘で、二人は赤木自身から婿候補に指名されていたのだ。それまでも、二人とも雪絵を気に入っていたので、この件に関しては、絶対譲れない二人なのであった。



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