忠順は話し終わって目を伏せた。その顔にホッとした表情を見つけて、宮は不思議に思った。だが、何も言わなかった。
「お前はその年にしてみれば、ずいぶんな出世をしたようだな」
 宮が言った言葉はそれであった。他の話題をしたくなかった。忠順が苦笑いをする。
「私の実の父親は本多正重なのです」
 宮はジッと忠順を見つめた。そして頭を下げる。驚いた顔で忠順は宮を見た。
「それがどんな悪人であっても、私がお前の父親を殺したことには違いない」
 慌てて忠順は首を振る。
「宮様が謝られることはございません。私には石谷忠輝だけが父親でしたから。それに、本多正重を殺したいと思っていたのは、私のほうが早かったはずです。それに宮様」
 と忠順は優しく微笑んだ。
「あなたは本多正重を殺してはいません。あなたはただ、本多の手を打っただけのこと。それに伴うその後の出来事は、あなたには関わりないことです。あれが、本多の寿命だったということなのです」
 宮は忠順のその微笑みの意味が判らない。
「お前はどうして私に話をしたんだ」
 忠順は再び微笑んだ。
「忘れようとして忘れたはずだった面影を、この目に映してしまったからでしょう。そして、それが姫宮様でもなく、唐様でもない、宮様だから」
 宮が一瞬言葉を失って、言葉を紡ごうとした時には、忠順の口が先に動いていた。
「宮様、夜も更けてまいりました。床を用意させていますので、どうぞお休みください」
 そう言って頭を下げる忠順に、宮は掛ける言葉がなかった。だから黙って立ち上がる。障子が開いて石和が廊下で立ち上がった。
「どうぞ」
 と言う石和の言葉に、宮は彼についていった。
 宮は用意された部屋に入っていった。そして床に入る。
(親子の母親は、私たちの母親でもあったのか?)
 そうだといって、宮には母親の面影を思い出すことはない。父親の面影も知らない。肉親に対する愛情など、自分にはないと思っていた。忠順の微笑みが、何故か自分を温かく包むのが不思議であった。
(私には人を愛することなど出来ない)
 宮は起き上がって障子を開けた。雨が相変わらず激しく降っていた。それが時折廊下に出てきた宮にもかかる。近くに座っている石和がいぶかしげに宮を見た。その視線を感じて宮は石和のほうを見た。
「石和、どうしてお前はそこにいる?」
「殿に言われましたので」
 宮は冷やかに石和を見て、庭に視線を戻した。石和は宮の横顔をジッと見つめていた。雨の音に混じって笛の音が聞こえてきた。
「いい音だ。だが、哀しさが滲み出るような音色だ」
 宮がポツリと呟いた。その表情は冷やかなままであったが、石和は何とも言えない感じを受けた。
「何故、この前お会いした時に、手合わせをしていただけなかったのですか」
 石和はつい聞いてしまった。宮は庭に視線を向けたまま、
「あの時は気が乗らなかった。ただそれだけのことだ」
 と言った。そして石和のほうを向いてニッと笑った。
「お前は私と手合わせをしたいのか。今ならその気になるかもしれないな」
 石和は首を振った。そして微笑む。宮はその微笑みが、先程の忠順の微笑みと重なって見えた。
「どうしてお前たちは、私にそんな微笑みを向ける?」
 苛立たしく宮は言った。言われた本人は、ふと首を傾げた。そしてまた微笑む。
「さあ、どうしてでしょうか。理由などないのです。たぶんそれは、殿も一緒だと思います」
 宮がムスッとした顔になった。
「宮様、あなたには判っているのではありませんか。誰が一番本当に優しいのか」
「優しい? それがどういう意味を持っているのだ? 大切なのは、そんなことではないだろう。一番問題なのは……」
 宮は口を噤んだ。そして部屋の中に入ると障子を閉めた。
「石和、いつまでそこにいる気だ?」
 障子を背にしたまま宮は言った。
「朝までここにいます」
 石和が即答した。
「お前の仕事は、石谷を守ることではなかったのか」
「殿に言われましたから」
「お前は石谷の話を聞いてはいなかったのか。別に私はお前が朝までそこにいようと構わないけどな」
 宮の言葉に、石和はふと考えてそしてハッとして駆けだした。いつの間にか、笛の音が止んでいた。宮は障子に僅かにもたれて動かなかった。茅野は布団の上ですやすやと眠っている。
「私には関係ない。何も関係ない。……しかし、どうしてここに来たのか」
 石谷忠順に会いたかった。それは事実だった。そして真実が知りたかった。それも事実だった。それを聞いたとして、自分の予想通りだったとして、いったいそれで自分はどうするのだろうか。宮はそれが判らなかった。
 確かに江戸に出てきたのは、唐とともにいたかったからだ。だが、今、自分がここにいる意味は何なのだろう。唐が親子のことを守ろうと思っている、その本音のところは、多分、宮が思っている通りなのではないか。少なくとも、親子に会うまでの十八年間の宮と唐の感情は同じだったと言えるのだから。宮は、ふと考える。いったい、いつから自分たちは、それぞれの感情を持ち始めたのか。
 宮は唇をギュッと噛み締めた。そしていきなり障子を開けると、走りだした。茅野がビクッとして起き上がり、キョロキョロと宮を探して部屋を飛びだした。
 宮が向かったのは、先程忠順と会った部屋。明々と明るい部屋で、入ってきた宮に石和は顔を向けた。真青になって、倒れている忠順を抱えている。宮は無言で石和を押し退けて座った。
「石和、紙と筆、それから油紙」
 宮の言葉に石和は無意識に従っていた。石和が戻ってきて宮にそれらを渡すと、宮はさらさらと何か書くと、それを油紙に包んで茅野を呼んだ。
「茅野、おばばを連れてくるんだ。いいか、会うのも連れてくるのも、おばばだけだぞ」
 紙を茅野の首の紐に括ると、茅野はキキッと鳴いて飛びだした。
「石和、この部屋には誰も近づけないように。茅野がおばばを連れてくるから、それは入れてくれ。お前も入ってはいけない」
 そう言って宮は石和を廊下に押し出した。
「宮様、殿はいったい……」
「石和、石谷は自分の罪を贖おうとしたのだろう」
 宮は冷やかに石和を見ていた。
「殿を助けてください。宮様、殿を助けてください。私に出来ることならば、何でもします」
「石谷にその気があれば、助かる見込みはあるかもしれないな」
 石和は宮の袖を掴んだ。
「殿ならば……」
「お前は石谷が自分で毒を飲んだことを忘れているのか」
 石和が強張った顔をさらに固めた。宮がフッと視線を逸らして、石和の手が宮の袖から離れた。障子がスッと閉まって、石和と宮との間に仕切りを作った。
「石和、石谷を助けたければ私の言ったことを守ることだな」
 石和は庭のほうを向いて座った。自分に出来ることはなにもないのだ。信じることしか出来ないのだ。

 沢渡はいきなり障子を破って飛び込んできた小さな影に眉をひそめた。
「宮様はそのように行儀の悪いことを教えたかな」
 カチカチと火打ち石を打って、行灯に火を灯した沢渡の前に、びしょ濡れになった茅野が荒い息をしていた。おやおや、と見る沢渡に、茅野は袖を引っ張った。その必死な表情に、沢渡は手紙を拡げた。みるみるうちに沢渡の表情が変わる。すぐに行李から包みを取り出すと、茅野に、
「行くぞ」
 と言って雨の中に駆けだした。茅野は少し遅れて、時折振り返りながら沢渡の後を追った。

 廊下に座っていた石和は、ガサッと茂みが動いてハッとそちらを見た。最初に出てきたのは茅野で、続けて沢渡が現れる。石和が障子の前から退くと、沢渡は部屋に入った。宮が少し顔を覗けて、
「石和、茅野の世話をしてくれないか。そのままでは風邪をひく」
 と言って障子を閉めた。石和はぐったりと座り込んでいる茅野を抱え上げると、宮のために用意された部屋に連れていった。そして茅野の体を拭くと、布団をかけてやった。茅野がすぐに目を閉じる。その頭をそっと石和は撫でた。
「私はお前のご主人様を信じるよ。それが出来るほどの方だと思えるんだ」
 石和は呟いて部屋を出ていき、宮たちのいる部屋の廊下に座った。
 雨が少し柔らかくなった。



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