江戸に戻った忠順は、年明け早々に妻を娶った。そしてその少女に会ったのは、その年の梅雨明けの日であった。
「忠順殿?」
 いきなり自分の名前を呼ばれて、忠順は驚いた。それほど大きくはない屋敷だが、誰にも見咎められずに入ってこれるはずはない。石和にも気づかれずに、ここまで辿り着けたことは不思議であった。そしてそれが十二、三の少女であることも。
「殿」
 一瞬遅れて、石和の声が響く。少女はニコニコと笑って、その場に立っているだけであった。忠順は、
「石和、下がっていろ」
 と言って少女に部屋の中に入るように言った。少女はすぐに忠順の言葉に従い彼の前に座った。
「忠順殿、お久しぶりですね」
 いきなりそう言われて、忠順は面食らった。まじまじと少女を見たが、覚えがない。
「一年前に京でお会いしました。私の名は、沢渡姫。あの時は沢渡と名乗っておりましたが。思い出されました?」
 少女の言葉に、忠順は目を見張る。
「え、しかし、沢渡と名乗っていたのは、老婆であったはず……」
 沢渡姫はにっこりと微笑んだ。
「この姿が私の本来の姿です。老婆に化けているのは、そのほうが行動しやすいから。私は初鹿野ですから」
 忠順は何も言えずに、沢渡姫を見つめていた。初鹿野のことは、噂だけ聞いていた。だが、それが本当の話とは信じていなかった。その幻の一族の一人が、この目の前の少女なのか。だが、そのことを詮索する余裕は、忠順にはなかった。沢渡姫が本題に入ったからだ。
「忠順殿、私があなたにお会いしたのは、お願いがあったからです。智子様のことです」
「智子殿が何か?」
 顔色を変えて忠順は言った。
「智子様は七年前に一度、身籠もられましたが、死産なさいました。そして、今年閏五月に女子をお産みになられました。親子と名づけられ育てられております」
 忠順は呆然としてそれを聞いていた。そしてさらに、愕然とすることを沢渡姫は言った。
「親子様の兄宮様は二月に践祚されました」
「あ…せ、践祚とは……。では、智子殿の嫁がれた先とは」
 忠順は真青になってぶるぶると拳を震わせた。それは信じられないことであった。嘘であると言って欲しかった。
「親子様は帝の末の妹宮様です」
 そう言って沢渡姫は忠順を哀れみの目で見つめた。
「あの時、沢渡は言ったはずです。苦しむことになってもよろしいのですか、と。忠順様、親子様は帝の妹宮、その出生を疑う者などおりません。ですが、あの夜のことは事実です。よろしいですね、忠順様。智子様にも親子様にも、僅かにも関係なさらないように。もちろん、私も二度とお会いしないと約束しましょう。あなたは何もかも忘れなければならないのです」
 忠順は震える体を抱き締めていた。自分で自分の震えを取ろうとするように。
「私は……私は何ということをしたのだ。私は智子殿に恨まれてもいいから、あの時抱いてはいけなかったんだ。私は……」
「忠順様、忘れてください。それが、あなたに出来るたった一つの事です」
 忠順が顔を上げると、そこに沢渡姫の優しげな微笑みがあった。それが少女の表情に見えなくて、だが、それを変だとは思わなかった。忠順が懐から何か取り出して、沢渡姫に差し出す。
「あの時、智子殿が置いていかれた匂袋です。思い出のために身につけていましたが、忘れる身にとっては無駄なものです。ですが、私には捨てられません。智子殿にお返し願えますか、姫」
 沢渡姫は匂袋を受け取って頷いた。
「それから、智子殿に一言だけ伝えてください。私は智子殿を恨んではいないと。それだけを伝えていただけますか」
 沢渡姫は立ち上がって、忠順にはもう何も答えずに出ていった。忠順の目に夏本番の陽射しがぼんやりと映っていた。

 それから数年後に、忠順に忠敏という男子が生まれ、目付から今では町奉行の職に就くまでに至ったのであった。



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