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弘化二年、石谷忠順は京の町にいた。四年前に父、忠輝が死んで石谷家を継いだ忠順は、十八歳で目付になった。異例とも言える抜擢であった。今、京にいるのは、もちろん仕事で、滞りなくそれをすませた忠順は、二、三日ゆっくりするか、とそぞろ歩いていたのだった。
知恩院の近くを通りかかって、忠順は前から歩いてくる二人連れに思わず声を掛けていた。
「智子殿、智子殿ではありませんか」
二人連れは、老婆と若い女性で、その若いほうが忠順を見つめて、そしてにっこりと微笑んだ。
「まあ、石谷家の忠順様……ですね」
智子のふくよかな笑顔に照れたように忠順は頬を染めた。
「もう、七年も経っているのですね」
「ええ、四年前に父も亡くなり、今では私が石谷家の当主です。今は目付の職についています」
「まあ、そうでしたの。大変でしたわね。でも出世なさって。まだ十九歳…でしたわね」
「ええ、まあ」
忠順は少し苦笑いをしていた。
「すぐに江戸へお帰りになるのですか、忠順様」
「いいえ、二、三日京の町をぶらぶらしようと思っておりました」
「それでは、ご案内をしましょうか」
「え?」
忠順は思わず智子を見つめた。智子の微笑みに忠順は胸が熱くなる。
「しかし、智子殿、ご迷惑ではありませんか」
「いいえ、とんでもありません」
その時、一人黙っていた老婆が口を開いた。
「御前、ちょっとよろしいかな」
そう言って智子とともに忠順に声が届かないところに行った。
「御前、どういうおつもりかな」
老婆が智子をたしなめるように言った。智子がすまなそうにうなだれる。
「おばば様、いけませんか」
ホウッと老婆は溜め息をついた。
「ご自分の身分を判っておいでじゃな。それなのに、これ以上勝手な行動を取ろうと言われるのか」
「おばば様、すみません。ですが、お願いです。忠順様が京におられる間だけ、私に自由をください。今度別れたら、きっともう一生お会いすることはないでしょう。ですから、私を許してください。今日、忠順様にお会い出来たのは、縁があったからですわ。おばば様のおっしゃる運命が、私たちを会わせたのですわ」
僅かに頬を紅潮させて智子は言った。老婆が重く首を振る。
「運命という言葉が嫌いだと言っておったと思うがな」
「でも、否定はなさらないでしょう」
老婆は智子をジッと見つめて、また首を振る。
「諦めるおつもりはなさそうじゃな」
「はい」
智子は真剣な顔で頷いた。
「運命とおっしゃるか。その運命によって、あの若者の未来に影を落とすことになっても、それでも構わぬか」
「私がすべてを背負いますわ」
そう言って智子はにっこりと微笑んだ。老婆は一人離れたところにたたずむ忠順に近づいた。忠順がハッとして、
「お話は終わられましたか」
と言った。老婆がジッと忠順を見上げる。
「わしは沢渡という。石谷殿、御前とともに苦しむことになっても構わぬか」
「構いません。いえ、智子殿の苦しみは私が代わりに背負いましょう」
忠順はきっぱりと言った。沢渡は頷いて、智子を振り向いた。
「さて、どこからまいりましょうか」
そして三人は歩きだした。
そして明朝、忠順が江戸に戻るという夜。沢渡の四条の家に忠順と智子はいた。沢渡は留守であった。
「七年前、私、父から聞きました」
夕食の後、智子が喋りだした。
「私、忠順様のお気持ちが嬉しかったですわ」
忠順の胸が高鳴る。そして、七年前を思い出していた。
智子の楡崎家は武家ではなく、智子の父は町医者であった。石谷家とは隣同士で、母親を早くに亡くした忠順は、六歳年上の智子を母とも姉とも慕っていた。それがいつしか、愛情に変わっていったとしてもおかしくはない。そして父、忠輝に自分の気持ちを伝えたのだ。忠輝はそれを嬉しそうに聞き、それを智子の父に話したのだろう。だがそのことを忠順が知る前に、突然智子の父親が亡くなり、葬儀が慌ただしくすまされた後、智子は姿を消した。遠くの親戚の元に行ったのだと、後になって知らされたのだった。
「智子殿、私は今でもあの時の気持ちのままです」
と忠順は智子の手を掴んだ。そしてハッとしたようにその手を離す。
「申し訳ありません。あれから七年も経ちました。未だ独り身というわけではないでしょう」
智子が忠順の手を取った。
「忠順様、私は七年前に諦めました。それは、忠順様に二度とお会いすることがないだろうと思っていたからです。ですが、私たちは今、会っています。縁がなければ、会うことなどございません」
忠順は智子に手を取られたまま、首を振った。
「駄目です。智子殿、私たちは二度と会ってはならなかったのです。あなたが独り身ならば、私とてこのままあなたを江戸に連れ帰りましょう。ですが」
智子がギュッと忠順の手を握り締めた。
「それをおっしゃらないでください。私は今でも、あの時に父が亡くならなかったら、と思います。私はすでに夫のある身、ですが、一夜だけの夢を見ることは、許されないとお思いですか。忠順様、私を今でも愛していると、その気持ちに偽りがないとおっしゃるのでしたら、私に思い出をください」
智子の真摯な表情に、忠順はグラリと気持ちを揺らした。それを必死に止めようとしたが、智子が胸に顔を埋めてくると、忠順の手は自然に智子の背に回っていた。そしてどちらからともなく、顔を近づけて唇を合わせた。
「夢のようですわ」
智子が一筋の涙を流して言った。そして忠順を見上げる。
「忠順様、もし、あなたが苦しむことになっても、私には何も出来ません。私があなたを苦しめてしまうのですから。私は恨まれても構いませんわ」
忠順は智子の頬をそっと触った。
「智子殿、何が起ころうとも、あなたを恨むことなどしないでしょう。あなたの苦しみも私が代わって背負いましょう」
そう言って忠順は智子に再び口づけた。
次の朝、忠順が目を覚ますと、智子の姿はなく、きちんとたたまれた着物の上に、匂袋が置いてあった。
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