その夜、春獄の屋敷ではまた一人居候が増えた。駄科である。そして宮も戻り、一橋慶喜もやってきて、一同はまた密かな晩餐を楽しんだのだった。
 その席で宮は、ふと慶喜に注意を向けた。慶喜は時折、それもほんの僅かな時間だが、親子を熱っぽく見つめていた。それに宮は気づく。慶喜が宮の視線に気づいて目を逸らし、そっと部屋を抜け出した。宮はそれを追うように部屋を出る。
「慶喜殿」
 と静かに呼ぶ。ハッとして慶喜が振り向いた。
「私の部屋に来ないか」
 そう言って宮は慶喜の返事も待たずにさっさと自分の部屋へと向かった。慶喜は、僅かにためらって、そしてそれを追った。
 五年後、十五代を継ぐ慶喜は、この時二十四歳。宮とは二歳違いであった。慶喜はキリッとした男前で、宮の美貌とはまた違う美しさがあった。
「あの、宮殿」
 と慶喜が自分を見つめたまま、何も言いださない宮から目を逸らした。
「あまり見つめられると、照れてしまいます」
 宮がニッと笑った。
「すまない。ただ、慶喜殿は、本当に親子のことが好きなんだな、と思っていたら、つい、見つめてしまっていた」
「は?」
 と慶喜が顔を強張らせる。
「慶喜殿が十四代だったら、良かったのにな。年の差も悪くなく、気も合いそうだ。十四代がどんな人物かは知らないが、親子とは年が合うだけじゃないのか」
「宮殿……」
 慶喜は何故、宮がそんな話を始めたのか判らなかった。だから、どんな表情をすればいいのか、何を答えたらいいのか、判らなかった。
「残念だな、十四代に成り損ねて」
 宮が顔から笑いを消す。慶喜は首を振った。
「姫宮様が降嫁なさるのは、十四代家茂様の元です。私には関係ありません」
 宮が慶喜をジッと見つめた。
「お前は親子を好きではないのか。なのに、諦めると言うのか」
「そ、そんな問題ではありません」
 宮が慶喜から視線を外した。
「そうだな」
 宮の呟きと、宮の横顔に慶喜はハッとする。それは一瞬の出来事ではなかったのか。それが浮かんだことすら、気のせいかもしれないと思ってしまいそうだ。淋しさという色が、そこにあったと思ったのは。
「宮様、よろしいかな」
 突然に廊下から沢渡の声がした。
「いいぞ」
 と宮が普段と変わりない声を発する。沢渡が障子を開けて、
「おや、慶喜殿もご一緒か」
 と言った。慶喜は立ち上がって、
「そろそろ、お暇しようと思っていたところです。宮殿、おばば殿、また後日」
 と出ていった。沢渡は、それを見送って部屋の中に入ると障子を閉めた。宮はごろりと寝転がる。その横に沢渡は座った。
「おばば、私は出ていこうかと思っている。本多が死んで、親子は心配はいらないだろう。唐もいるし、春獄殿の手の者も腕が立つ。私はいないほうがいい」
「宮様……」
 宮は沢渡を見上げた。その瞳は沢渡を映していたが、本当に映していたものは何だったのか。
「知ってはならないことを知ってしまったのかもしれない。何も知らない唐は、親子の側にいたほうがいい。私は出ていくから、おばば、後のことは頼む」
「宮様、唐様は……」
 宮が首を振った。
「唐は親子に夢中だ。おばばの心配していることは、多分起こらない……」
「宮様」
 沢渡が宮の横顔を辛そうに見つめる。宮がその頬に浮かべたのは、何だったのか。沢渡には、理解出来ない表情であった。
 宮は立ち上がって、障子を開けて口笛を吹いた。どこからか、ガサガサと音がして、茅野が宮の肩に駆け登った。
「また、雨が降りそうだな」
 と茅野の頭を撫でて宮が言った。
「宮様、お一人で行かれるのか……」
 沢渡の苦しげな表情に、宮は口の端で笑う。
「不思議か、そんなに」
「宮様、江戸に出てこられた理由はわしの思った通りではなかったのか?」
「私にはおばばの札は読めない。でも、おばばは私の札を読めるはず。いまさら、何を言いたい? 最初から親子には唐だけを会わせたかったはずだろう。少し回り道をしたが、これで元の道に戻っただけのこと」
「宮様、それは」
「おばば、もう何も言うな。私はただ……」
 宮はそう言いかけて、パッと庭に飛び出して、闇の中に消えていった。沢渡がそれを呆然と見つめる。
「これが最後の別れではないはずじゃが……」
 低く低く沢渡が呟いた。
 そして、また、雨が降ってきた。



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