◆
越前屋甚三はパチパチと算盤をはじいていた。本多正重からの呼び出しにはそれがすんでから行こうと思っていたのだ。二人の息子も商売に身を入れるようになって、越前屋はそろそろ隠居を考えるかな、などと思っている。それとともに、政界とのつながりも切ってもいい。もちろん、息子たちがそれを望むならば、後押しはしようと思っていたが。
「越前屋甚三とはお前のことだな」
一息入れようと湯飲みを手に取ったところで、声を掛けられた。越前屋は一口お茶を飲むと、
「どなたですかな」
とゆっくりと振り向いた。そこにいたのは宮。もちろん、越前屋は知らない。
「お前、どうして驚かない?」
宮が不思議そうに言った。越前屋は目をぱちくりとした。
「驚いております。いきなり声を掛けられましたから」
「では、私が怖くはないのか」
越前屋はニコッと笑った。
「あなた様の目的が、私を殺すことではない、と判っているからです」
「何故、そう言い切れる?」
宮の冷たい視線が越前屋を見つめる。
「さあ、何故でございましょう。商人の勘、とでも申しましょうか」
「お前、面白い奴だな」
宮がニコリともせずに言った。どうぞ、と越前屋は宮に椅子を勧めた。宮は頷いて座った。
「それで、何のご用でございましょう」
「越前屋、本多正重に会いにいくのか?」
「そう言えば呼ばれておりましたね」
笑いながら越前屋は言った。それに宮は首を傾げる。
「お前は本多の仲間ではないのか」
越前屋が苦笑した。さらにそれでは我慢出来ないように笑い声を立てた。
「本多様にそう思われていても別に構いませんが、私のほうでそう思ったことはございませんね。恐らく、他の私と同じような立場の者もそう思っていると思いますが」
宮が不思議そうに越前屋を見た。
「商人は自分の損得だけで算盤をはじきます。主従の関係や義理や人情だけでつながることはございません。本多様とつながっていたのは、ただそれによる旨みがあっただけのこと。それ以上の関係はございません」
「では、本多の頼みを聞くことはない、ということか?」
越前屋は首を振った。そしてふと宮を見つめ直して、
「あなたはどなたです?」
と言った。宮は少し間を置いて、
「私は宮という」
と言った。
「半分はすすんで本多様の頼みをきき、残り半分は、頼みを断るか、あるいは、判っていても知らせなかったか。いずれにしても、私が本多様に対してただ、耳を傾けていただけ、と言えましょうな」
「では、今、本多とあと幾人かとの画策に対しては、どうなんだ?」
越前屋は笑った。
「宮様、やっと本題に入られたようですね。それを私に聞くためにここに来たのではありませんか? 何の前置きもなしに入られても良かったのですよ」
宮は冷たい眼差しで越前屋を見つめる。
「どうして?」
冷やかな口調は、しかし越前屋の笑みを凍らすことにはならなかった。
「私と酒井様、石谷様はある夜、本多様に呼ばれて、ある少女を探すようにと言われました。本多様はその少女を始末するとおっしゃって、私どもはその少女を探すことを承知しました。正確には私と酒井様が頷き、石谷様は反対のようでしたが。その後、石谷様は一人残られて、本多様と何か話されていたようですが、その中身については知りません。そして本多様も酒井様も、その少女の行方を突き止めることが出来ず、今夜に至っているということです」
宮は少し目を伏せて、すぐに越前屋に戻した。
「その言い方だと、お前はその少女の行方を突き止めたようにも聞こえるが、聞こえるだけなのか、それとも、突き止めたのか?」
「今夜、本多様のお屋敷にお訪ねして、お教えしようかと思っておりました。本多様のお探しの十五歳の少女は、松平慶永様のお屋敷におられると」
宮の鋭い視線が越前屋を射る。越前屋はビクッと肩を震わせたが、すぐに元の表情に戻る。
「どうして、そう言える?」
越前屋は肩を竦めた。
「私は商人ですから。そして、松平様のお屋敷にも出入りを許されています」
「そうか」
と宮はさらに越前屋を見つめる。
「本多は死んだ。そう言ったらどうする?」
越前屋は目を見張って、
「そうですね」
と言った。そして、
「どのような死に方をなさったのか判りませんが、私にとってはもはや旨みのない人物になっておりました。今夜、本多様のところへその少女のことをお知らせにいこうと思ったのは、そろそろ手を切ろうかと思っていたからです。本多様がその少女を始末しようとしたのは、私怨です。仮にも老中という役職にある者が、私怨で動いてはなりません。本多様が亡くなったところで、越前屋の屋号がなくなるわけではございません。他の役職の方々が、私と本多様とのつながりのように、つながっていくだけのことです」
と付け加えた。
「まるで、寄生しているようだな。これからは、お前たちが動かしていくようになるのかな」
宮が言った言葉に、越前屋は笑った。
「それが、私どもに出来ることですから」
宮は立ち上がって、風呂敷包みを越前屋に渡した。
「本多の出方によってはそれをあの男に見せようと思っていた。間違って落としたわけではない。だが、あの女には罪はなかった。悪かった、と一言で済ませてしまえないことも判っている。だが、私にはこれ以上何も言えない。越前屋、それを使ってくれ」
越前屋がいぶかしげに包みを開ける。中には長い黒髪が入っていた。驚いて越前屋が立ち上がった宮を見上げる。
「本多のところにいた、あれは、本多の孫娘だな」
「琴姫様の……」
ギョッとして越前屋は黒髪を見直す。
「子や孫が親の罪を背負うことはない。それを私も判って……」
宮はそう言いながら部屋を出ていく。宮の言葉の最後の辺りは越前屋には聞こえなかった。越前屋はそれを背中で感じながら、艶やかだった琴姫の黒髪を思い出していた。
←戻る・続く→