本多家。

 正重の前に忠順は座っていた。正重はまだ人を待っている、と言って本題には入らなかった。
「しばらく降り続くようじゃな」
 なかなか来ない待ち人に少し苛立った様子で正重は言った。待ち人は若年寄の酒井忠民と越前屋甚三であった。そして、その正重の苛立ちを違うものに変えたのは、そこにいる人物でも、待ち人でもなかった。
「本多正重、今年の梅雨明けには出会えない」
 その声は屏風の後ろから響いてきた。正重はパッと振り向いて、
「誰だ!」
 と叫んだ。屏風の陰から人影が現れる。正重は思わず凝視していた。そのあまりの美しさに、我を忘れるところであった。
「何者だ」
 正重は相手の線の細さに、恐怖を感じなかった。どう見ても、か弱そうな男である。自分の命を狙うような相手には見えなかった。それよりも、その美貌に触手が動いた。思わず舌なめずりをしてしまう。忠順はその様子に胸くそが悪くなった。そして、忠順の目が男に向いて、ふと目を伏せる。何か考え込んでいる様子だったが、ハッとまた視線を戻した。それに正重は気づかない。正重は立ち上がって男に近づいた。
「何か、欲しいものでもあるのか。お前の出方次第では何でもやろう」
 正重の手が男の頬を撫でる。
「私の名は宮。私の欲しいものは、本多、お前の命、そして兄者の身柄。それにおまけとしてついてくる親子の命だな」
 そう言って宮はするりと髪を束ねていた緋色の紐を解いた。バサッと長い髪が揺れる。正重は慌てて後ろに退きながら、
「く、曲者だ! 誰かいないのか!」
 と叫んだ。そして刀掛けから脇差を取り上げて抜く。だが、屋敷内はシンとして、正重の叫びに応える者はいなかった。
「邪魔だったからな、少し休んでもらっている」
 ニッと笑って宮が言った。正重は信じられない、という目をして宮を見ていた。この男にそんなことが可能だというのか。
「な、何者だ、お前……」
 宮の右手からダラリと伸びる緋色の紐が、やけに不気味に見えた。
「そうだな」
 と宮は忠順をチラリと見た。忠順は少し離れた場所に座ったまま、宮を見上げていた。その目を少し綻ばすのを見て、宮は僅かに目を細めたが何も言わずに正重に視線を戻した。
「この世で最後の夜なのだから、聞きたいことは全部聞いておきたいか。じゃあ、一つだけ教えてやる。私はただの幽霊さ。ただし、普通の幽霊と違って足もあるし、お前を殺すことも出来る。私はお前が何故親子を狙うのか、その理由を聞きたいとは思わない。だからお前も言わなくてもいいぞ。私にとってそれはどうでもいいことだからな。お前を始末したいのは、ただ単に、これ以上平穏な暮らしを邪魔されたくないだけのことさ」
 宮はそう言って冷たい眼差しで正重を見る。正重は持っていた脇差をいきなり振り回した。それを宮は緩慢な動作で避けている。忠順にはそう見えた。いきなり宮の左手の緋色の紐が、正重の手の甲を叩き、ちょうど上に向かって振り回そうとしていた正重は、脇差を放り上げる恰好となった。思わず忠順は刀の行方を追った。正重も追った。それはただの偶然だったのか。それとも宮が計算づくでやったのか。刀は正重の胸に吸い込まれるように刺さり、正重は驚いた表情で柄を掴んだ。宮が緋色の紐で、髪を縛る。忠順の目には、確かに宮が正重の手の甲を叩いたことしか見えなかった。そして宮もそれしかしなかったのだ。
 正重は膝をつき、ゴボッと血を吐いた。そして宮を見上げる。ギッと睨む正重を宮は冷やかに見下ろしていた。
「いいことを教えてやろう。上様に降嫁してくる女は、内親王ではない。あれは……」
 正重は再び血を吐いて、震える左手で指さした。その先にいるのは忠順であった。忠順は表情を失ってそこにいる。だが、正重はそれ以上はむせて何も言えず、バタリと倒れた。宮はそれを見て、そして忠順を見た。忠順は呆然としてそこに座り続けた。宮が無言で出ていった後も、しばらく座り続けたままであった。
 宮はすぐに離れへと向かう。そして声を掛けた。
「兄者、暇そうだな」
 少しして中から駄科が現れた。そしてキョロキョロと辺りを見回した。
「宮、一人か?」
 宮は頷いて、
「兄者、おばばが心配しているから、先に春獄の屋敷に行け。私は少しすることがある」
 と背を向けた。
「宮」
 と駄科が声を掛けたが、宮は何も答えずに暗闇の中に消えた。駄科は宮の言う通りに春獄の屋敷へと向かった。



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