再び、春獄の屋敷。
 沢渡の部屋に入っていった唐は、部屋に沢渡しかいないことに気づいた。
「どうなされた、唐様」
 沢渡の側に唐は座る。
「宮が帰ってきたそうだ。てっきりおばばのところだと思ったんだけどな」
「おや、宮様が戻ってきたのか。着替えておるのではないかな。雨が降っていることだし」
 そう言っているところに宮が入ってきた。
「宮、どこに行っていたんだ?」
 唐が詰問するように言った。親子のことを放っておいて、何日も戻ってこない宮が唐は許せなかった。
「おばばに何も聞いていないのか」
 不思議そうに宮は沢渡のほうを見る。沢渡は何か言いたげな唐に、
「唐様、少し宮様に話がある。二人だけにしていただけぬかな」
 と言った。唐はムスッと立ち上がると出ていった。
「唐は……変わったのかな」
 宮がポツリと呟いた。沢渡は吐息を落とした。
「唐様も変わられたが、宮様も変わられたであろ」
 宮は沢渡をチラリと見る。
「私が?」
 そう言ってフッと笑う。その笑いをすぐに消して、
「おばば、二条に会った。孝明にも熾仁にも」
 と言った。沢渡はジッと宮を見る。宮がすくっと立ち上がった。
「宮様?」
 何も言わずに出ていこうとする宮を、沢渡はいぶかった。二条忠雅に会ったのならば、それなりの話を聞いたはずだ。そのことに対して、何も言わないのか。
「本多を始末しよう。みやげは兄者でいいな。それ以上何か欲しいのなら、今のうちに言ってくれ」
「宮様……は、ご自分の手を汚されるのか。何のために?」
 沢渡は苦しげに言った。宮が口の端で笑う。
「それを何故と聞きたいか。おばばは判っているだろう」
「判らぬから聞いておる」
 沢渡の答に、宮が不思議そうな表情になった。そしてニッと笑う。
「おばばも年か」
 そう言い残して、宮は雨の庭に出ていった。
「宮様!」
 立ち上がろうとする沢渡の裾を何かが引っ張った。沢渡が見ると、茅野が裾を引っ張って、キキッと鳴いた。まるで、宮を追うなというように。沢渡は座り直して、茅野の頭を撫でる。
「宮様はすぐに戻られる。お前はそう信じているのだな」
 沢渡の言葉に応えるように、茅野はまたキキッと鳴いた。その尻尾をピクッと動かすと、沢渡の着物から手を離して急いで部屋から出ていった。間もなく、唐が沢渡の前に現れた。
「おばば、宮はいったい何を考えているのだ」
 沢渡は首を振って、
「唐様。宮様のことを一番判っていらっしゃるのが、唐様ではないのか」
 と言った。唐は黙って目を伏せた。すぐに目を上げる。
「ああ、そうさ。宮は一人で何でも出来る。だけど、姫宮は誰かが守ってやらなければならないんだ。だから、宮にも姫宮に優しくして欲しいんだ。なのに、何故、宮は姫宮に対して冷たい? 江戸に出てきたのは、姫宮を守るためだったはず」
 唐はそう言ってさっさと部屋を出ていった。沢渡は呼び止めることなしに、やがて障子を閉めて座った。
「違う……違うのじゃ。宮様は……」
 苦しげに沢渡は呟く。キキッと小さな鳴き声がして、沢渡は茅野がまた側にいることに気づいた。
「出たり入ったりが激しい奴じゃな」
 と沢渡は笑って、ふと気づいた。何故、茅野はずっとここにいなかったのか。わざわざここに戻ってきたのか。
 そして、数日前の出来事を思い出す。一橋慶喜からもらった目白の竜王の姿がいきなり駕籠の中から消えた。そして庭の角に無残な姿で見つかったのだ。猫の仕業だろうと片はついたが、沢渡は何か引っ掛かっていた。
(まさか……な)
 沢渡の心の氷塊が溶け、全く違う理由で再び心の一部を凍らせた。だが、それに気づかない振りをした。心の奥底にその思いを閉ざしたのだ。もちろん、その思いを信じたくなかったから。そして信じていたから。



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