安藤家。
「何を言った?」
 信睦は扇子を持つ手に力を込めて言った。
「手を引かれるように、と」
 どこからともなく声がしてくる。天井からなのか、隣部屋からなのか、信睦には判らない。
「久々に戻ってきたと思ったら、何を言いだす」
 どこにいるか判らない相手に、いつも以上に信睦は苛立っていた。それに火に油を注ぐように、
「殿のなせることは何もないからです」
 と笑いを含んだ答が返った。
「明石!」
 信睦は扇子をバキッとへし折った。自分が一番気に入っている扇子であることを、この時は忘れていた。
「明石、お前は私の何だ?」
 信睦の興奮した声に、冷静な答が戻ってくる。
「私は殿の手足」
 その答に信睦の気持ちが少し落ち着いた。
「ただし、この前お会いした時までは」
 続いての言葉に、信睦は愕然とする。相手の言葉が信じられない。何を言いだしたのだろうか。
「明石……」
 信睦の手からへし折られた扇子が落ちる。音もなく、隣部屋との襖が開き、そこにひざまずいた明石の姿があった。その顔を信睦に向ける。愛嬌のある目に笑みが浮かんだ。
「探していた方を見つけ出すことが出来たのは、殿のお陰です。それは感謝しております。殿、私はあなたを利用したまでのこと。こんなに早く見つけ出すことが出来るとは思っていませんでした。私はもはや殿の手足となることは出来ません。そして明石という名は、もはや私の名ではありません」
「明石」
 信睦が立ち上がって明石に近づく。明石は信睦を見上げた。
「殿は何もなさらなくてよろしいのです。老中筆頭として十四代の婚姻の準備をなされるがよろしい。姫宮の降嫁は確実に行われるのですから」
 信睦は立ち止まった。明石がジッと信睦を見つめている。
「お前が探していたのは姫宮様のことか?」
 明石がクスリと笑って、そして一瞬にしてその場から消えた。
「明石!」
 と叫んでも、もはや何の答も戻ってはこなかった。信睦は力なくそこに座り込む。ふと、振り向いて扇子の残骸に目をやって溜め息をついた。
「私に出来ることは……」
 信睦は呟いて、もう一度溜め息をついた。明石が親子のことを心配しなくてもいい、と言うのなら、それは本当のことなのだろう。それを信睦は判っていた。だから、信睦は明石の言う通り、これ以後は親子のことを探すことを諦めた。ただ、明石が探していた人物というのは、誰だったのか、それを知りたかった。それは親子だったのか、それとも、別の誰かなのか?
 ただ、信睦はその答を知ることは出来なかった。近い将来に、公武合体を成功させた信睦だったが、あらぬ流言によって坂下門外の変で負傷し、政治生命を絶たれることになる。そして、明石には二度と出会うことはなかったのだ。



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