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同じ江戸でもちろんここでも雨は降っていた。春獄の屋敷、その親子の部屋。
親子は少し障子を開けて、降り続く雨を見ていた。膝の上には茅野が丸くなって寝ている。その茅野がふいにピクッと起き上がると、いきなり部屋を飛び出していった。何かから逃げるように。親子は首を傾げて、
「茅野、どうしたの?」
と立ち上がった。そしてちょうど庭を通り過ぎようとした唐に気づいた。
「お兄様。まあ、そんなにお濡れになって……」
「姫宮」
と唐は優しく微笑んだ。その温かさに親子は自分が包まれるのを感じた。
「早くお着替えになって。お風邪をお召しになるわ」
心配そうに親子が言うと、唐が、
「判った。姫宮、私の心配をしてくれてありがとう」
と笑った。
「当たり前のことですわ」
親子が笑って、唐は自分の部屋へと向かった。唐の姿が消えると、親子は目の端に茅野の姿を見つけた。
「茅野?」
どうしてそんなところにいるのだろうか、と親子は不思議であった。茅野はトコトコと歩いて再び親子の側に寄った。親子はしゃがむと茅野を抱え上げる。
「茅野、どうしたの?」
親子の言葉に応えるように、茅野はキキッと小さく鳴いた。親子が笑って、
「もしかして茅野、お兄様がいらしたから逃げだしたの?」
と言った。もちろんそれは冗談だったのだが、親子はそれに対する茅野の様子にハッとする。もしかしてそれは本当のこと? でもどうして?
キキッと再び小さく鳴いて、茅野は親子の胸に頭をこすりつけた。親子は無意識に茅野の頭を撫でる。ピクッと茅野が顔を上げて、キキッと嬉しそうに鳴き親子の腕を離れた。
「茅野?」
親子が縁側に出ると、茅野の嬉しそうな鳴き声とともに、宮が木々の中から出てきた。傘はどこに置いてきたのか、宮は雨に濡れて、
「茅野、お前まで雨に濡れることはないのに」
と茅野の頭を撫でていた。茅野は宮の肩の上で、宮の頬に頭をこすりつける。
「宮お兄様」
親子が言って、宮は親子のほうを見て笑った。
「親子、茅野が世話になったな」
親子はハッとする。宮の笑みを見たのはこれが初めてだ。だから、
「先程は、お兄様がずぶ濡れになっていらっしゃった、と思ったら、今度は宮お兄様まで。お兄様方って一心同体なのね」
と笑って言った。宮の表情が一瞬にして変わる。笑みが消えた。
「だから親子」
宮が冷たい眼差しで親子を見つめた。そしてニッと笑うと歩きだしながら、
「近づかないほうがいいかもな。私にも唐にも。私たちは幽霊でしかないのだから」
と言った。親子は遠去かる宮の背に、顔を強張らせたまま叫んだ。
「私だけでも忘れません。私のお兄様なのですから」
宮がふと立ち止まって、
「それは違う。そのことを思い出さなければならない。親子、お前は大切なことを忘れかけている」
と言うと親子の返事を待たないまま去っていった。
「宮お兄様……」
親子はすでに見えなくなった宮の姿を脳裏に浮かべていた。自分は何を忘れかけているのだろう。宮は自分に何を言いたかったのか。それを考えていた親子は、廊下にずっと立っていた。
「姫宮」
と呼ばれて、側に唐がいるのに初めて気づく。唐の優しげな微笑みに、親子は今までの思考を閉じた。
「お兄様、宮お兄様が帰っていらっしゃいましたわ」
と親子は部屋の中に入りながら言った。
「宮が? そうか、じゃあ、おばばのところだな」
と唐は言って、
「宮にちょっと会ってくる」
と立ち去った。親子は唐を見送る。
「お兄様、私はずっとお兄様と一緒にいたいですわ」
唐が振り返って微笑む。
「嬉しいな。姫宮のそう言ってくれる言葉は嬉しい。だが、京に戻ってそして大奥に行かなければならないのだな。私もその時が来るのが辛いよ」
唐はもう一度微笑んで去っていった。親子はそのままそこに立ち続けていた。唐の言葉が嬉しい。そして宮の眼差しが辛い。そしてふと思い出す。茅野が唐と一緒のところを見たことがないことを。宮がいない間、茅野は親子が世話をしていた。唐も親子と一緒のことが多い。にも関わらず、茅野は唐がいない時だけ、親子の側にいた。それは何故なんだろう。親子は考えたが答を出すことが出来なかった。
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