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温田重行は、蕎麦をゴクリと飲み込んだ。何気なしに外の様子を見ていた重行は、幸綱から聞いた容姿、風貌の男を見たからだ。
(小猿は連れていないようだが)
と思ったがすぐに袂から代金を取り出すと立ち上がって丼の横に置いた。
「ごちそうさん」
暖簾を割りながら重行はそう言って出ていった。そしてその男を尾ける。
(自分を尾けていた男を尾けていた幸綱にも気づいた、と言っていたな。では、気づかれて当たり前か)
と思いながら重行は男を尾けていた。男がふいに横道に逸れる。重行は苦笑しながら、まっすぐに歩を進めた。江戸の町は同心にとって自分の町であった。特にこの辺りは重行の担当であったところだ。どの道がどこに続いているのか、重行に判らないことはなかった。
男が入った横道は、以前、幸綱が宮と出会った地蔵堂に続いている。そして重行が地蔵堂に辿りついた時、男は地蔵堂の石段に座っていた。重行を見ても表情を浮かべない。重行は、
「宮殿ですね」
と言って男に近づいた。男が僅かに眉をひそめる。重行はそれに気づくことなく男の隣に座った。
「お前は?」
と男が言って、
「私はこの前宮殿が出会った新城幸綱の同僚で、温田重行と言います」
と重行は答えた。
「同僚?」
「私たちは町奉行石谷忠順様配下の同心です。幸綱にそう聞かれているはずですが……」
重行はだんだんと口籠もる。何か違う。幸綱に聞いていて想像する宮と、風貌は一致するのだが、雰囲気が全く違う。
「あなたは、宮殿ではないのですか」
まさか同じ顔が二つあるとは思わない。全くの別人に対して自分は喋っているのだろうか。男が微笑んだ。
「確かに私は宮ではない。私は宮と双子の唐だ」
ああ、そうなのか、と納得しながら、重行は何か冷たいものが通り過ぎた気がした。
どんよりと曇っていた空から、パラパラと雨が落ちてくる。二人の座っている石段にも雨は落ちていた。
「お前が宮と何の話をしていたのか私は知らない。宮に会いたいのならば探すんだな。私も宮がどこをほっつき歩いているのか知らない」
唐は立ち上がって重行を見下ろしていた。その顔には笑みしか浮かんでいない。そのまま唐は背を向けてその場から足早に去っていった。
唐の姿が見えなくなってしばらくして、重行はフウッと大きく息を落として目を閉じた。そのまま重行は固まった。ピクリと左手の鞘を持つ手に力が入る。
(三人)
自分に対して殺気を放っている気配を重行は感じた。目を閉じたまま左の親指が音もなく鯉口を切り、滑るように刀が鞘から抜け出て、それが当たり前のように右手が柄を握り、クルリと半回転して立ち上がった。
(一人)
ドサリッと今まで重行が座っていたところに男が倒れ込む。それを背中で感じながら、ゆっくりと刀を横に薙いだ。存分な手応えがして、重行は顔で血飛沫を受けた。雨の中に出ていき、血が流れ落ちるのを感じながらまだ重行は目を閉じたままだった。
(二人)
心の中で呟いて、最後の一人の気配を探っていた。確かに自分を狙っていたのは三人だった。今日は幸綱と交代して、本多家を探っていた重行であった。恐らく、それで尾けられたのだろう、と思っていた。
(気配が消えた?)
重行の顔から血飛沫が流れ落ち、目を開けた瞳に映ったのは、すでに屍になっている男が二人。緊張を解かないままの重行の触覚に、もう一人の気配がない。逃げるはずなどない。なのに、どうしていないのか。重行が気づかないだけで、まだ自分を狙っているのだろうか。
いきなり少し離れたところでドサリと音がして、思わず重行は振り返っていた。ゴロリと、倒れた胴体から離れた首が重行のほうをジッと見つめていた。重行をまだ狙っているように、自分が死んだことにも気づかないように、その視線は生々しくて重行は一歩下がる。そしてそのまましばらく動けなかった。
もちろん、自殺なわけはない。重行が自分の気づかぬうちにそれをしたわけではない。出来たのはただ一人。だが、重行にはその理由が判らなかった。唐には重行を助ける義理など存在しない。宮から何も聞いていないのならば、自分たちが親子を守ろうとしていることなど知らないはずだ。重行もそのことは一言も言わなかった。そして、それ以上に唐に人助けなど似合わない。重行はそれが不思議であった。似合わないのではなく、そもそもそんな感情など持っていないのだ。あの笑みだけを、それも温かな笑みだけを浮かべていた唐に、重行は恐怖を感じていた。
(きっと彼は、僅かな罪悪感もなしに、何に対してもその生を奪うことが出来るだろう。もちろん、人に対しても……)
重行が唐に対する恐怖を持ったのは、これが理由であった。
(恐ろしいほどに温かな笑みを浮かべたまま……)
たぶん、この男を殺したのは、重行を助けるわけではなかったのだ。恐らくは、ただの気紛れ。
重行は刀を握り締めたまま、雨の中に立ち尽くしていた。自分の命があることが、怖いぐらいに不思議であった。
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