春獄の屋敷。その親子の部屋。親子はそこに一人であった。茅野は朝の散歩に出掛け、親子は脇息にもたれて初夏の庭を見つめていた。鳥のさえずりと部屋に近づく足音に、親子はそちらに注意を向けた。部屋の中が見えないところで相手が立ち止まり、廊下に座ったのに親子は気づいた。
「姫宮様、入ってもよろしいですか」
 その声は一橋慶喜であった。
「慶喜殿? どうぞ、お入りください」
 慶喜は障子の陰から少し覗いて、親子に頭を下げると部屋の中に入った。そして鳥籠を差し出す。鳥籠の中では一羽の鳥がピョンピョンと飛び跳ねながら時折さえずっていた。
「まあ、可愛い」
 親子が思わず微笑んだ。それから目を逸らすように慶喜は視線を落とした。
「目白という鳥です。名前は竜王といいます。姫宮様に差し上げようと思いまして」
「私にくださるのですか? 慶喜殿が可愛がられていた鳥ではありませんの?」
 慶喜は少し視線を上げて、親子にチラリと目を合わせたが、またすぐに目を落とした。その頬が僅かに赤くなる。それに親子は気づかなかった。
「竜王は今日は特に美しく鳴いております。姫宮様を気に入ったようです。それに竜王は雄ですので、姫宮様に可愛がられたほうが嬉しいと言っております」
 そう言ってやっと慶喜は親子に向かって微笑んだ。思わず、
「ありがとうございます。喜んでいただきますわ」
 と親子は頭を下げながら言っていた。それは礼の意味もあったが、それ以上に自分の表情を慶喜に気づかれないようにとの配慮があった。親子は気づいたのだ。慶喜は自分を気に入っている。恐らく、異性として恋をしているか、あるいは、恋をしかけているか。だが、それは叶うはずのないものなのだ。いくら慶喜が十四代になったかもしれない、と言っても、彼は十四代ではない。十四代に降嫁する親子にとって、あるいは一番恋してはいけない相手かもしれない。だから、親子は顔を上げた時、表情を微笑みに変えていた。親子が慶喜の気持ちに気づいたことも、慶喜が気づかせたことも、それは互いに気づいてはいけないのだ。
「慶喜殿、ずっと可愛がりますわ。大奥に入ったら、このように自由な時を過ごせないでしょうから。どなたにもお会い出来なくなるのですから。慶喜殿も春獄殿も、おばば様も……それに、お兄様にも」
 親子が哀しげな表情を混ぜた。
「そうですね。宮様も唐様も姫宮様のことを大切に思っていらっしゃいますから」
「えっ」
 親子の驚いた声に、慶喜が驚いた。親子が畳の目を見つめながら低く呟く。
「お兄様は本当に私のことを大切にしてくださるわ。でも、宮お兄様は違う。私の側にはいらっしゃらないし、私に対するあの冷たい眼差しは……。宮お兄様は私をお嫌いなのよ、きっと、私がお兄様を取ったと思っていらっしゃるんだわ」
 慶喜は思わず息を止めていた。親子がハッとして顔を強張らせた。
「姫宮様」
 慶喜がつとめて明るく親子を呼んだ。親子は顔を上げられなかった。
「今日は新緑が特に綺麗に輝いています。きっと、間もなく梅雨に入るでしょうけど、その前のお日様の輝きでしょうか。では、姫宮様、失礼いたします。春獄殿と約束していますので」
 慶喜はそう言って親子の返事を待たずに廊下に出た。
「慶喜殿」
 親子の声に慶喜は振り向いた。親子の表情は堅さは取れていなかったが、落ち着いていた。
「ありがとうございます」
 慶喜は一度頭を下げると親子の前を辞した。
 親子はホウッと一つ息を落とした。この時に初めて気づくのだ。
(私はお兄様に恋してる? 唐お兄様を、兄としてではなく、男として……?)
 慶喜の気持ちに気づいたように、親子は自分の気持ちに気づいた。そして首を振る。それはきっと気のせい。それはきっと違うのだ。
 親子の部屋が見えるところに、その時唐はいた。親子と慶喜の話の内容までははっきりと聞こえなかったが、その時の唐の顔には表情は浮かんでいなかった。何を思っているのか、表情を読むことは出来なかった。そしてクルリと背を向けると、木々の中に消える。そして、それを沢渡の目が追っていた。沢渡の顔にも表情が浮かんでいない。老婆の視線が落ちて、こちらも背を向けると屋敷の中に消えていった。



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