有栖川宮家の奥の一室では、熾仁が一人でいた。夜も更けているのに未だ床に入っていないのは、幟子が先程江戸から戻った知らせを受けたからであった。身支度をすませてここに来るのを待っていた。だが、幟子より先に熾仁は会ってしまうのだ。
「有栖川宮熾仁殿?」
 言葉が降ってきた時、熾仁はボーッとしていた。確認するような口調に、思わずハッとそちらを見る。ふわり、と熾仁の前に下りたのは、宮。熾仁は彼の容貌をまだ幟子から聞いてはいなかった。ただ、その美貌がこの世ならざるほどに見えて、恐怖を感じることはなかった。
「明石という名に心当たりはあるか」
 熾仁はえ、と首を傾げた。最初の質問としては、いささか変だ。そして熾仁にも不法侵入者のぶしつけな質問に答える義理など持っていなかった。
「他人の屋敷に何の断りもなく入ってきて、私の名を呼ぶのは、私に用があるのだろうが、自己紹介もない奴の相手をする気はない」
 熾仁はそう言って宮を睨む。宮はニッと笑った。その時、廊下で、
「兄上様」
 と声がして障子がガラリと開いた。入ってきたのは幟子であった。幟子は熾仁に笑いかけて、宮に気づいた。
「あなたは……宮様」
「宮様?」
 熾仁が改めて宮を見直す。
「幟子、知り合いか?」
 幟子が肯定しかけて、ふと悩んだ。知り合いと言えるほど親しいわけではない。会ったのはたった一度、それも紹介などされていないで。
「江戸で一度だけお会いしました。姫宮様のいらっしゃる屋敷で。お名前だけをおばば様からお聞きしました」
「そういえば、私もお前のことはおばばから聞いていた。有栖川宮家の姫だと。熾仁殿の妹御か」
「幟子と申します」
 幟子はそう言って、宮から目を逸らした。ジッと見られると頬が赤くなりそうだ。正体など判らない者に、と自分を戒めようとしたが、それは叶わない。普通の美貌ではない。魂までも吸い取られそうに感じた。その気持ちは熾仁とて同じであった。同性であると認識する前に、宮の容貌が脳裏から離れなくなる。
「あなたは、いったいどなたなのです?」
 熾仁の問いは、好奇心ではなく、詰問でもなかった。その質問は必然である。そして実は聞きたくはない答を見いだす問いでもあった。ただし、相手が答えてくれることが第一条件ではあるが。
「私は別にお前に会うことが必然とは思わない。ただ、明石と名乗った男が、会ってみろ、と言ったから、私はここに来た。別に会わずとも良かった、と思っているがな。どうして明石はそう言ったのか?」
 最後の言葉は、自問自答を促していた。だが、宮は答を口にすることはなかった。
 宮は立ち上がって、二人を見下ろす。その表情の冷たさに、二人は同時に気づいた。
「熾仁殿、お前は親子の婚約者だったそうだな。お前は親子をどう思っていたのだ。ただ単に婚約者として見ていたのか、それとも、それなりに好いていたのか」
 熾仁は宮が親子を呼び捨てにすることを不思議に思った。いったい、この男は何者なのだろうか。それを知ることは恐らく自分はないのではないか、それは、おかしなことに真実なのだとすでに判っていた。だから、宮の質問にだけ短く答える。もちろん、事実を。
「姫宮様は婚約者、私にとってはただそれだけのことです。宮家の者にとっては、血筋だけが大事なことですからね。それをあなたがどう思おうと、私はそういう風に育てられました」
「別に婚約を破棄されても、構わなかった、と?」
 宮の顔から表情が消えた。熾仁はギクッと顔を強張らせたが、宮はそのまま何も言わずに二人に背を向けた。その時に、熾仁は宮の顔に不思議な表情を見たような気がした。それが何だったのか、熾仁は宮が立ち去って幟子が声を掛けるまで判らなかった。
「兄上様?」
 幟子の声に熾仁はそれに気づくのだ。あれは哀しげな微笑みだった。それは何故なのか。
「兄上様?」
 再び幟子の声が熾仁を呼ぶ。熾仁が首を振って、
「幟子、今夜は誰にも会わなかった。今夜はお前が江戸から帰ってきただけだな」
 と言った。幟子は熾仁をジッと見つめて、
「そうですね」
 と頷いた。だが、二人ともきっと忘れるはずなどないのだ。たぶん、二度と宮には会わないだろうけれど、彼のことは忘れない。宮の美貌だけではなく、彼の冷たい眼差しだけではなく、彼に見えた僅かな哀しげな翳に。気づかないでいることが出来れば、そのほうが良かった。だが、二人とも気づくのだ。そして忘れられないことも。
 熾仁と幟子の、二人の心の中の思いは異なる。二度目の出会いであった幟子は、もう会うことがないだろう宮に、だが、出来ればまた会いたいと思っていた。もっと宮のことを知りたかった。異性として簡単に魅せられた、という理由ではない。もっと何か違う理由で幟子は宮のことを知りたかった。会わないと判っていたから、そう思ったのか、そうなのかもしれない、と幟子は思った。
 熾仁の脳裏にはただ宮の哀しげな表情が浮かび続ける。そしてその容貌が誰かに似ていることに気づいた。だが、この時にはそれが誰に似ているのか判らなかった。近い将来に、親子が京に戻ってきて、その時にそれと気づくのだ。宮には親子と似通ったところがあったのだと。ただこの時には、親子の側に彼がいることに安心感を覚えた。ほんの少しの時間しか出会っていなかった熾仁と宮なのに、そのことに確信が持てるほど、熾仁は宮を信頼出来た。たぶん、僅かな時間しか共有出来なかったからこそ、そんなことを思えたのかもしれない。
 幟子は自分の部屋に戻って、熾仁はそのまま部屋の中で、二人ともふと思い出した。幟子が江戸から帰ったにも関わらず、その話を全くしなかった。そして、それでいいのだと思うのだ。宮が現れたことによって、熾仁は知りたいことを知り、幟子は伝えたいことを伝えたのだ。
 幟子の目の前にひらひらと紙が舞い降りてきた。ハッと上を向いても、ただ天井があるだけであった。訝しげに幟子がその紙を拾う。
『百檀に花橘の仄かな香、姫の身であれば爽やかな風として匂い立つ』
 その紙に書かれていたのは、その一文だけであった。我知らず幟子は涙を流していた。それが誰によって書かれたものか、もちろん、幟子には判る。何故、それを自分に言うのか。それも判った。だから自然に涙を流した。



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