京、そのとある屋敷。
 宮の姿はその屋敷の天井裏にあった。屋敷全体がざわめいているのだが、その原因などどうでもいいことであった。ただ、そのためなのか、ただ単に人がいないのか、宮の神経に触れる者がいないことが面白くなかった。
 宮の目が見つめているのは、床に入っている一人の男。その横に一人の老女。宮には男が死の床についていることが判った。この屋敷の、それも主人格らしい男の死期が近づいていることが、この屋敷がざわめいている理由ではないようであった。
 宮はざわめきの中心へと移動した。そしてそこに少年の姿を見てハッとする。
(唐!)
 と宮は心の中で叫んだ。その少年が唐に似ているというわけではない。雰囲気が似ているわけでもない。少年の、今置かれている状況が、宮の記憶の中の唐にそっくりなだけであった。宮たちがこの少年ぐらいの年に、唐が誤って毒薬を口にしてしまった。その時の症状に、この少年が重なる。宮は首を振ってその場を立ち去ろうとした。だが、それは叶わなかった。
 宮の懐から何かが取り出され、それがその部屋に静かに舞い落ちた。すぐにその部屋の住人はすべて眠りに落ちる。その間に宮の姿は少年に近づいて、やがて天井裏に消えた。
(年が似通っているのがいけないんだ)
 宮はその部屋から遠去かりながら思った。あの時の唐は十歳、この少年は九歳であった。
 宮は一つの部屋に下りると、ゴロリと横になった。用があるのはこの屋敷の主人だが、あの少年の心配がなくなるまでは、話など聞けそうになかった。それまで少し休みたかった。この部屋が何に使われているものなのか、などということは関係なかった。ただ、少し疲れていただけのことであった。

 そしてどれだけの時が経ったのだろうか。宮は目を開けてそのまま顔だけ上に向けた。すでに夜。闇の中に障子のほの白さだけが浮かんでいる。
「お前、誰だ?」
 宮は何に向かって言っているのだろう。部屋の中には宮の他には誰もいないというのに。それなのに声が返ってくる。
「それをお聞きしたいと思っていたのは、こちらのほうです」
 天井板が動いた様子も見せずに、天井から黒い影が宮の近くにふわりと下りる。宮はゆっくりと起き上がっていた。
「ここにおられるのは、京極公房殿のはず」
 相手の言葉に宮がおや、と思った。
「お前、兄者の知り合いか?」
「兄者? あなたは公房殿の所縁の方ですか?」
 宮はまじまじと相手を見つめた。夜目はよく効くほうなので、別に灯がないからといって不自由はしない。三十前後というくらいか。髪は短く切り揃え、目は大きめで愛嬌がある。相手はその目を少し細めた。
「あなたは何者です?」
 宮は表情を冷たくした。
「教える必要はない。教える義理もない」
 男はその目元から愛嬌を消す。
「では、何のために二条家にいるのです?」
 宮の冷たい眼差しが男を射る。
「私の勝手だ」
 とふと、宮が男を興味深げに見た。
「お前は二条の手の者か?」
 男は口を開きかけて少しためらった。
「私は二条家の者ではありません」
 ふうん、と宮は興味を失ったように、男から目を逸らした。
「残念だな。お前が二条の手の者なら楽しめそうだな、と思ったのに。この屋敷には何もいないようだから」
 宮は立ち上がって、ふと男を見下ろした。
「私は、宮という。お前の名は何だ?」
 男は宮を見上げた。
「今の私は明石と名乗っております」
 男はそう言うと、暗がりの中に消えた。
「兄者に会いにここに来たのか、明石」
 どこからともなく声が落ちてくる。
「公房殿がどこにおられるのか、ご存知なのですか」
「兄者は江戸にいる。最後に会った時、本多正重の屋敷に行くと言っていた。それ以後は会っていない。もっとも会ったのは、それが四年ぶりだったがな」
 宮は障子をガラリと開けた。明石の声は再び落ちてきはしなかった。そして、宮も明石のことを忘れた。目の前の部屋は、二条忠教の部屋。そう、ここは二条家なのだ。
 宮は歩きだした。先程、死期のすぐ側まで近づいていた忠教は、すでにその線を越えていて、それに付き添っていた老女は、コクリコクリと舟を漕ぎながらそれにまだ気づいていなかった。
 宮は目指す部屋に迷うことなく進んでいた。そしてその部屋の近くになると、わざと足音を立てて部屋の前に立ち止まった。
 部屋の明かりが人影を障子に映す。近づく人影は障子をガラリと開けた。宮の前に立っているのは二条忠雅であった。忠雅は宮をジッと見ると、
「埃を落として来ぬかな」
 と廊下の向こうを指さした。宮は無言でそちらに向かった。
 パシャンと湯船の中で宮は湯面を叩いた。隣の脱衣所に人の気配がして、
「着替えを用意しております。お着替えください」
 と声が響き、人の気配は消えた。
 宮は湯をすくって指の間から零す。目を閉じてそのまましばらく動かなかった。


←戻る続く→