石谷家からいつの間にか出て通りを歩いているのは、沢渡であった。その横に暗がりからスッと男が近づいて一緒に歩きだした。唐であった。 「おばば、ここは町奉行の屋敷だな。おばばの知り合いか?」 「唐様もわしと同じぐらい生きておれば、たくさんの知り合いは出来ような」 沢渡の言葉に唐がチラリと老婆を見下ろして、そして、 「恋のもつれでもあるのか」 とニコニコ笑いながら言った。唐は立ち止まった。 「唐様、殺してはならぬぞ。絶対にな」 沢渡は笑顔を浮かべている唐を見上げて言った。唐がその頬に不満げな色を混ぜる。 「面倒だな。何故いけないんだ?」 沢渡が首を振って、 「あの男は敵ではない。姫宮様の居場所は教えるわけにはいかないが、彼らを殺すことは許さぬぞ。判ったな」 とキッと睨んで言った。唐はやれやれ、と肩を竦めると、 「判った。おばばは先に帰っていてくれ」 と言ってくるりと背を向けた。沢渡はその背を一瞬見つめて立ち去った。 沢渡姫を尾けるつもりの石和は、遠目で彼女に連れがいたことに気づき、そしてその連れが自分を待っていることに気づいた。言葉を掛けられたわけではない。唐の雰囲気が自分を呼んでいた。殺気は全く感じられない。石和は唐に近づいた。 「お前、主人の命令でおばばを尾けようとしていたらしいが、よせよせ、いまさら恋のもつれなど起こるわけはない」 「恋のもつれ?」 石和は相手が何を言っているのか判らなかった。唐はクスリと笑うと、 「ああ、違ったな。おばばはお前を敵ではないと言っていた。だが、姫宮の居場所は教えるわけにはいかないとも言っていた。おばばの言うことは正しいから、お前は敵ではないんだろう。だが、姫宮の居場所を探しているのなら、私にとっては敵と同じことだな。おばばに釘を刺されたから、今のところは見逃してやるさ。でも、再び同じことを考えたならば、おばばに後で文句を言われようが、私は別に構わない。何なら今ここで、逆らってくれたほうが、私としては助かるな。面倒なことは好きじゃない。私の前に立ち塞がるものは、すべて排除してやるよ」 と嬉しそうに言った。石和の目の前の相手は、始終笑みを絶やさない。それなのに、石和は背筋を冷たいものが下りていくのを感じた。殺気など、どこにもない。なのに、この震えは何なのだろう。優しげな笑みを浮かべて、この男は気に入らないものをいとも簡単に殺してしまうのではないか。石和は動けなかった。唐はまだそこに立っている。もう、石和が自分たちを尾ける気がないのは判っていた。だけど、こいつを排除してはいけないのか。それを実行に移そうかな、と思った時、唐の後ろで声がした。 「唐様、姫宮様がお帰りを待っていらっしゃるであろうな」 その言葉に、唐は石和のことは脳裏から消した。動けない石和をそのままに、沢渡と唐はゆっくりと歩き去った。 やがて石和の呪縛が消える。あの老婆が声を掛けなければ、自分は間違いなく殺されていた。そして老婆が、少女と同一人物であることを、何故か判っていた。 石谷家に戻った石和は、忠順に姿を見せないまま、戻ったことを告げ、忠順は石和の無事の帰還を喜んだのであった。
春獄の屋敷に戻った沢渡と唐は、それぞれ自分の部屋へと向かっていた。それに沢渡が声を掛ける。
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