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石谷家。
忠順の前には、新城幸綱の姿があった。
「宮と名乗った男?」
忠順は首を傾げた。今日になって幸綱の報告を聞いているのは、忠順がしばらく留守にしていたからであった。
「年の頃は私より少し若いぐらいに見えました。武士にも町人にも見えません。全く正体が掴めませんでした」
「あの方の居場所を知っていると、その男は言ったのだな」
幸綱は頷いた。
「自分の帰る場所に一緒にいると。あの方をお守りしている役目の人なのだと思いますが。ただ、そうとは見えぬ雰囲気がありまして…」
「それでお前は尾けなかったのだな」
幸綱は肩を震わせた。
「尾けることは出来ませんでした。いくらお奉行のお眼鏡に叶ったとはいえ、腕の差があり過ぎました」
忠順は考え深げに幸綱を見た。
「それほどの腕か」
「恐らく……としか言えません」
幸綱は忠順をジッと見た。その瞳に何かしら不思議な色を感じて、
「新城、何か言いたいことがあるのか」
と言った。
「よく判らないのです。宮と名乗った男は、確かに相当の腕が立つと思います。そして私に言ったことも実行に移すだろうことも確かだと思います。そして、あの男の殺気も本物だと思います。それなのに、あの男は人を殺すことはないのではないか、と思えるのです。それが何故なのかが、私には判りません。ですが、先程のことを思い出すごとに、その思いが強くなるのです」
忠順は幸綱の言葉に何も言わなかった。忠順は宮に会っていないのだから、幸綱の宮に対する観察が正しいかどうかなど判らない。
「判った。とりあえず、お前は戻れ」
「判りました」
幸綱は一礼すると忠順の前を辞した。
「姫宮様はどこにおられるのだろう」
忠順の呟きは低く低く響いた。あの宮と名乗ったという男は、親子の何になるのだろうか。ただの護衛なのだろうか。幸綱から話を聞いただけの忠順は、それ以上のことは判らなかった。直接会ったとすれば、また思い当たる点も出てくるかもしれないが。
しばらくいろんなことを考えて、ボーッとしていた忠順は、廊下を軽い足音が近づいてくるのに気づいた。子供の足音のようであった。忠敏か、と思った。忠敏は十三歳の忠順の息子であった。
「誰だ?」
石和の誰何する声がして、相手が忠敏でないことが判った。すぐに石和の驚きを含んだ声が響いてきた。
「あなたは……」
忠順は石和の驚きの相手に興味を抱いて耳をそばだてた。石和が驚くことなど、ほとんどないことだからだ。
「お久しぶりですね、石和殿」
その少女の声に、忠順は少しの間もおかずに障子を開けていた。
「姫!」
忠順は部屋の明かりのもれた中に立っている少女を見つめた。そして石和に頷くと、石和はその場を去っていった。
「どうぞ、中へ」
声を震わせて忠順は言い、二人は部屋の中で対座するのであった。
「お久しぶりですね、忠順殿」
「沢渡姫……なのですね、本当に」
「十五年も経ったのですね、お別れしてから」
沢渡姫はそう言って微笑んだ。忠順の声はまだ震えていた。
「二度とお会いしないと言われました」
沢渡姫は微笑んだまま、
「ええ、十五年前にそう二人で約束しました」
と言った。
「それなのに何故、私の前に現れたのですか、姫?」
沢渡姫の表情から微笑みが消えた。
「それは私の言いたいことですわ、忠順殿。何故、姫宮様の行方を探しているのです。あの時に姫宮様には絶対に関わらないと約束したはずですね」
忠順は唇をギュッと噛み締めた。
「その約束を破る気はありませんでした。ですが……」
沢渡姫はふと目を伏せた。
「本多正重が関わっているのですね。本多が姫宮様の命を狙っているのですね」
忠順は頷いた。
(ああ、やはり。実の親子でありながら……。無惨なこと……)
沢渡姫が憐れみを浮かべて忠順を見る。忠順は沢渡姫を恐る恐る見つめた。
「姫、先日、私の手の者が出会った宮という男は何者なのです?」
沢渡姫は首を振った。
「それはお教え出来ません。忠順殿、もう、姫宮様のことには関わらないことです。姫宮様は私たちがお守りしているのですから。そして、いくらあなたにでも、姫宮様の居場所をお教えすることは出来ませんわ」
そう言って沢渡姫は立ち上がった。
「石和殿」
その言葉に襖がスッと開いた。石和は沢渡姫をひざまずいたまま見上げていた。
「腕を上げられましたね。忠順殿をお守りするのが、あなたの役目ですよ。それをお忘れにならないように」
石和は無言で沢渡姫を見つめているだけであった。
「それでは、忠順殿、もう、本当にお会いすることがありませんように」
沢渡姫は二人に一礼すると立ち去った。
「殿」
石和が忠順を心配そうに見つめる。石和は沢渡姫には十五年前に一度会っただけであった。だから、その正体などは知らないと言っていい。ただ、忠順が姫と呼んで接しているから、それなりの礼を取ることが必要だと思っているだけであった。だから、次の言葉があった。
「殿、私が尾けましょう」
そう言って立ち上がりかけた。忠順はハッと石和のほうを向いて、そしてしばらく石和をジッと見ていた。
「殿」
早くしなければ、沢渡姫の後を追えなくなってしまう、それを心配して石和は忠順を急かした。忠順は頷いた。だが、すぐに言葉を続ける。
「石和、いいか、お前は私の手の者だが、一番の使命は、私を守ることだということを忘れないでくれ」
石和は沢渡姫が言ったことと同じことを忠順に言われておかしなことだと思った。
「私があの少女に劣るとでも言うのですか」
忠順は首を振る。
「沢渡姫はただの少女ではない。お前はそのことに気づかなかったのか」
それは確かにそうであろう。十五年前と全く変わらぬ姿を、先程見せられたばかりであったから。
石和はスッと消えた。忠順の許しを待っていたら、尾ける前に姿を見失ってしまう。
「石和、無理はするな」
すでに声の届かないところに行ったはずの石和に、忠順はその言葉をかけた。
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