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夜半から降りだしていた雨は、明け方にはあがり、朝の太陽が新緑を煌めかせていた。
沢渡はいつものように親子に朝の挨拶をしに、親子の部屋に向かった。宮の姿をここ、何日か見ない。気にしてはいるものの、恐らく自分から何かを考えて姿を消したのだと沢渡は思っていた。だから、探すことはしなかった。
「姫宮様、おはようございます」
沢渡は開けっ放しになっていた障子の前に立ち止まった。親子はすでに身支度をすませて、箱から何かを取り出していたところであった。
「おばば様、おはようございます」
親子はニコッと笑って言った。
「薬玉じゃな」
沢渡が親子の手の中にあるものを見て言った。
「もうすぐ端午の節句か」
そう言って沢渡は親子の側に座った。
「そう、お兄様がくださったの。おばば様がお教えしたんでしょ」
沢渡は首を振って、
「いいや。唐様はよほど姫宮様のことを大事に思っておるのじゃな」
と感心したように言った。親子が嬉しそうに手の上の薬玉を見つめる。
「お兄様が私のために?」
そう言って、
「ずっと飾っておこうっと」
と付け加えた。
「ところで、姫宮様、宮様の姿を見かけたかの?」
親子は首を傾げた。
「いいえ、茅野にも会ってないの」
「そうか」
沢渡は立ち上がって、縁側に出ていった。雫がキラキラと光って、目に眩しい。
「雨があがって良かったの」
そう言って沢渡は目の端に映った赤いものに気づいた。おや、とそのほうを見る。
「茅野、どうした」
そこにいたのは首に緋色の布を巻いている茅野であった。茅野はキキッと鳴いて、部屋のほうと沢渡を代わる代わるに見た。
「ああ、話は終わったぞ」
沢渡の答に茅野はトトトッと側に寄ってきて、沢渡を見上げた。沢渡は布に紙切れが挟まっていることに気づいた。
「それは、わし宛か?」
茅野は少し首を傾げて、そしてキキッと鳴いた。沢渡が紙切れを取り上げて拡げる。すぐに宮の字であることは判った。読んでいく沢渡の表情は変わらない。
「姫宮様」
と沢渡は後ろを向いた。親子は茅野に嬉しそうな顔をしながら、でも部屋からは出ていなかった。
「宮様が少し留守にする間、茅野の世話をよろしくと書いておる。よろしいかな」
親子が茅野に駆け寄りながら、
「もちろんですわ」
と言った。
「茅野、宮様のおられない間は、姫宮様がご主人様じゃ」
茅野はキキッと鳴いて、親子の肩に駆け登った。沢渡は庭へと下りて、自分の部屋に戻っていた。そして途中でふと人影に気づく。
「あれは……」
と呟いた。沢渡の目に映ったのは、一橋慶喜の姿であった。彼は親子の姿をジッと見ていたのだ。その目に、恋い焦がれているものを見つけて、沢渡はハッとする。
(一橋殿は、姫宮様に恋しておられる?)
沢渡の見ている前で慶喜はふうっと吐息を落としてくるりと背を向けた。そして、沢渡に気づくのだ。慶喜は顔を強張らせて、そして沢渡をしばらく見ていたが、やがて一つ礼をすると去っていった。
(切ないな)
やはり、慶喜は親子に恋しているのだ。そしてそれは叶えることの出来ない恋なのだ。それを慶喜は判っている。それにも沢渡は気づいた。
愚かだ、と言うだけですませていいのだろうか。確かに親子は十四代に降嫁するのであって、いかにその候補であったからと言って、慶喜は十四代ではないのだ。絶対にそれは、伝えることも出来ない思いであった。
(人間は、上手く生きることが出来ないものだ)
そう思って沢渡はフッと吐息を落とした。それは自分も含めて一緒のはずなのに。
沢渡は立ち止まって、木々の間に見える青い空を見上げた。
(京へ行かれたか)
宮の手紙には、ただ京へ行く、とだけ書かれていた。何のために行くのか、沢渡は考えていた。
(宮様も姫宮様のことを守ろうと思っていらっしゃるのだ)
その本音のところがどこにあるのかは別にして。沢渡はその考えだけは確信が持てた。宮は唐が親子を守ろうと思うかぎり、同じことを思い続けるであろう。そう思って、沢渡はギクリとした。唐が親子を守ろうとしなくなる、そんなことがあり得るのだろうか。宮のことも唐のことも、何もかも判っていたはずの沢渡であった。だが、それはほんの一部分でしかなかったのだと、近い将来に沢渡は気づかされてしまったのであった。そして、それに伴う心を切り裂かれるような痛みと。沢渡が初鹿野であっても、それにはその時まで気づかなかった。いや、初鹿野というものを忘れたいと思っていたから、気づかなかったのかもしれない。
(二条様に会いに行かれたのだろうか)
それとも、帝に? 宮が何を思って京に向かったのか、その答を沢渡が出す前に、老婆自身が会わなければならない人がいた。二度と会わないとお互いに決めた相手、石谷忠順に。
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