さて一方、宮と別れて本多家に向かった駄科は、すぐに正重に目通りが叶った。正重は駄科から渡された二条忠雅の書状を拡げて読んでいた。駄科は離れた場所に座って返事を待っていた。
「二条殿は返事を持って帰るようにと言われたか」
「いいえ、別に何も言われませんでした」
 正重は立ち上がると駄科のすぐ側に近づいた。
「駄科、二条殿はお前を好きに使ってよいと言っておる。いいな」
「それが二条様の意志であれば、私はそれに従います」
 正重は再び駄科から離れる。
「一人、探してもらいたい女がいる」
 駄科は顔を伏せたまま聞いていた。
「人探しをやれとおっしゃるのですね。判りました。どなたをお探しすればよろしいのですか」
「聞きたいか?」
 揶揄を含んだ口調に、駄科は少し顔を上げた。正重の顔に笑いが浮かんでいる。駄科は顔を伏せた。
「京生まれの宮人には江戸の水は合わぬと言うからな。いつなりとも帰ればよい」
 駄科が不審気な色を浮かべたが、顔は伏せたままだった。
「その女を探し出して始末してもらいたい」
「始末?」
 駄科は正重を見上げた。それはどういうことなのだ?
「お前は忍びの業を習得しているのだろう」
「忍びとは、人を殺すために修業するのではありません」
「忍びとは、すなわち間諜か」
 正重が嘲ったような笑いを含めて言った。それに対して、駄科は反論はしなかった。正重は下を見下す身分に生まれたのだ。駄科にしても、それほど低い身分ではないのだが、地位があることと、無冠であることの、この違いは大きいのだ。
「まあ、よい。では、人探しだけならばやってくれるな」
 正重の口調は問いではない。駄科は断ることなど出来ないのだ。
「判りました。それで、どなたをお探しするのですか?」
「皇女じゃ」
 正重の言葉は、駄科の耳に突き刺さる。それは聞き間違いだと思った。
「親子という名のな」
 震えるような声で駄科は言う。
「姫宮様をどうなさるのです?」
「始末する、と先程言ったはずだな」
 駄科の顔色がなくなる。その顔に怒りが浮かんできた。
「本多様、その理由を教えていただきたく思います」
 正重の顔に蔑むような表情が浮かんだ。
「それが聞ける身分だと思っているのか」
「私は、皇家をお守りする公家の出。姫宮様を害すると言われて、それを見過ごすことは出来ません」
 正重は表情を変えることなく、駄科を見ていた。
「まあ、ゆっくりと考えるんだな、駄科」
 正重はそう言って立ち上がった。出ていきたかったら、出ていってもよいぞ、とその瞳が語っていたが、駄科はそれを選ぶことは出来なかった。正重が出ていくのを見つめながら、自分が囚われた駕籠の鳥であることに気づいていた。自分が答を出す前に、ここから出ていくことが出来るのだろうか。
 女が顔を覗けて、
「ご案内いたします」
 と言った。駄科は頷いて、女の後をついていく。案内されたのは、離れであった。女は駄科を促すと、さっさと去っていった。駄科は離れの一室に入って座る。
「私の力では無理か」
 駄科は呟いて、溜め息をついた。囚われの身を自分で自由にすることが出来るほど、駄科には力がなかった。正重の手の者がよほど油断すれば、別であったが。
(宮たちが言った敵とは、本多正重のことなのだ)
 駄科はそれを確信した。だから、宮は駄科にあんな口をきいたのだ。そして、宮がまだ正重のことに気づいていないことにも気づいた。
(姫宮様は、松平慶永様の屋敷におられるということだな。恐らく、唐もおばばも一緒だろう)
 そう考えると親子のことは安心出来た。駄科は人質としては役に立たないのだ。自分の命は、それほどに重要ではない。そこまで自分は重要人物ではない。自分の身すら守れないのであれば、当然であった。
 とにかく、駄科にはたぶん、少しだけ時間があるのだ。それがいつまで続くのかは、誰にも判らなかった。
(二条様は本多正重のことを知っていたのだろうか)
 知っていたとすれば、それは信じられないことであった。同じ公家として、目上の尊敬出来る人として、二条忠雅は存在しているのだ。それが根底から覆されたとすれば、何を信じていいのか判らなくなる。その自分の信頼を、自分で信じられなくなってはたまらない。それ故に、駄科は忠雅を信じることにしたのだ。



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