「殺したのか」
 宮の言葉は問いではなく、確認であった。出てきた男からは血の匂いがするし、何より、先程の浪人よりは数段腕がたつことに宮は気づいていた。
 宮は立ち止まった場所から動くに動けない町人をジッと見つめていたが、やがて石段に座ると、
「座れよ」
 と隣を指さした。町人は驚いた表情を浮かべて宮を見つめた。しばらく自分を困惑顔で見つめている町人を見ていた宮は、
「別にお前は私を尾けていたわけではないだろう。あの男が私を尾けていたから、自然にここにいる」
 と言った。町人は意を決して宮の隣に座った。だが無言であった。
「自分では気づかないことが多いが、武士の歩き方には特徴がある。幼い頃から刀を差しているから、差さない時も自然とその形を取る。武士でない者が武士に化けるのは簡単だ。お前は何者だ?」
 宮はそう言って、
「私の名は、宮という」
 と付け加えた。町人は目を見張ったまま、宮を見続けて、やがて、
「私は、新城幸綱といいます。確かに町人の姿をしていますが、武士です」
 と言った。そして、宮を眩しげに見ると、
「宮殿、あなたは私たちの探している十五歳の少女の居場所を知っているのではありませんか」
 と続けた。宮は眉をひそめた。
「十五歳の少女?」
 それは親子のことなのだと宮はすぐに思い当たったが、いったい何故、この幸綱という男が自分がそれに関わっていると思うのだろう。事態はいったいどうなっているのか。何があると判って江戸に来たわけではない。それは宮だけでなく、唐も一緒であった。だが、すでに何かが起こっているのだろうか。それならば何故、沢渡は何も言わないのか。
「私はその方をお守りすることを命令されております。ですが、今のところその方の居場所すら判りません。それではお守りすることが出来ないのです。どうか、知っていらっしゃるのでしたら、お教えください。私たちは決して敵ではないのです」
 幸綱はそれこそ必死の形相で宮に詰め寄るような恰好で言った。宮はそれを冷やかに見つめている。幸綱を観察すると、彼が嘘をついているとは思えない。もちろん、幸綱の演技力が宮の勘の上をいくのであれば、それは判らないが。
「新城殿、私はお前が嘘をついているとは思えないが、かと言って味方とも思えない。それだけの話で自分を信じろ、と言うのは、少し甘くはないか」
 幸綱は肩を落として、
「それは判っています。ですが、私は詳しくは何も教えられていないのです。私はただ命令を守るだけですから」
 と言った。宮がニッと笑う。
「その命令を出している相手が、実は本当の敵だったりするんだな。お前は嘘はついていないだろう。だが、お前の親玉がお前を騙しているかもしれない。騙し、騙され、さ」
「違う、お奉行はそんな方ではない」
 幸綱はそう叫んでハッと口を押さえた。宮が一瞬驚いた表情を浮かべて幸綱を見た。だがそれはすぐに消えた。ただ口元に苦笑は残していた。
「奉行……か」
 宮の呟きに幸綱は唇を噛み締めた。ここで奉行の名を出すべきではない。出してしまったものはしかたない、と考えなければならないのだが、幸綱はそれをどう対処したらいいのかをすぐに思いつかなかった。
(奉行と名のつくものはいくつかあるようだが、さてそのうちの何だろう)
 と宮は考えていた。幸綱が自分の失態に対してどんな手を打ってくるのかも興味があった。
 幸綱は顔を伏せて大きく深呼吸をした。宮はそれを興味深げに見つめている。まさか、幸綱がその名を出すとは思わなかった。
「私は町奉行、石谷忠順の命を受けてその方の行方を探しております」
 宮は幸綱を鋭く見つめる。初めて会った人間に、何の疑いもなくすらすらと何もかも話すことを是、と思っているのだろうか、この男は。宮はそれが不安であった。宮自身は親子の敵ではない。だから、宮に対して幸綱が何でも話すことはよしとしよう。だが、もし、宮が敵であれば、この男は自分から敵に情報を流していることになるのだ。こんな男に親子の情報を流すことなど出来ないではないか。そして、石谷忠順という男に対しても、不安材料になるのではないか、などと思っていた。
「新城殿」
 零下の冷たさで呼ばれて、幸綱はハッと顔を強張らせた。ゾクッと背を震わせる。宮の冷たい視線があまりにも痛い。そして自分が間違ったことをしたことに気づいた。宮は首を振った。
「どうして私に喋ったのかは聞かない。だが、その口をしばらく動かさないことだな。自分でも知らぬうちに、お前は味方の首を絞めていることにもなりかねない。ただ、一つだけ聞いておく。どうして私が十五歳の少女の行方を知っていると思っているんだ?」
 幸綱は強張った表情を浮かべたまま、
「私はお奉行に老中本多正重の屋敷を見張るように言われました。そして先程の浪人が尾けていた男が会ったのが宮殿で、浪人は男を尾けるのを止めて、宮殿を尾け始めました。浪人は本多の手の者で、わざわざ宮殿を尾ける対象にした、ということは、何かしら関係があるのではないか、と考えたのです。やはり、あなたは知っていらっしゃるのですね」
 と言った。幸綱は宮から情報を取ろうとする愚は再び起こさなかった。宮は何も言わずに立ち上がった。
「私は確かに十五歳の少女の居場所を知っている。私が今から帰る場所に少女はいる。新城殿が場所を知りたいと思うのならば、私を尾ければいい。別に、私は少女の居場所を教えたくないわけではない。新城殿が私を尾けることが出来るのならば、それでもいい。だが、私は人に後を尾けられるのは嫌いだ。ただ、それだけは言っておく。気に入らないものは必ず私は排除する」
 そう言って宮はニッと笑うと、立ち去った。幸綱は見動ぎもしなかった。動けなかったわけではなく、動かなかったのだ。自分は決して宮を尾けることが出来ないだろう。それを気づいて、そしてだからこそ、自分は動かなかったのだ。恐らく、宮は敵ではないのだ。親子の居場所を知っていると言うのは、それを守っている、と思って間違いないだろう。宮は自分にとって敵ではない、そう考えながら、幸綱は宮に二度と会いたくなかった。これ以上宮に会ってしまうと、自分が傷ついてしまうのではないか、と思った。宮によってではない。宮に関することで。それはどうして浮かんできた思いなのか、判らない。ただ、それは確かに正しかったのだ。
 幸綱の前から無言のまま立ち去った宮だったが、一抹の不安が心の中をよぎった。幸綱の言った本多正重の名が、心に不協和音を奏でていた。駄科は確かに言っていた。二条の書状を本多正重に届けると。つまりは駄科が、いや、その上司である二条が自分たちにとって敵になるのではないだろうか。
「こんなことならば、あの時兄者を殺しておけば良かった」
 と宮は呟いた。別に駄科が憎くてそんなことを言うのではない。そしてこの時には、親子を守りたくてそう思ったのではない。宮は唐が親子を守ろうとしているから、一緒に江戸に出てきたのである。大切なのは、唐だけなのだ。親子は唐の付属品なのだ。それが殺されようが、降嫁しようが、それは全く自分には関係のないことだった。ただ、唐がそれを哀しむだろうから、それを見たくないから、唐の気紛れさがいつまで続くかは判らないが、それが親子に向いている限り、自分は親子を守るのだ。宮は自分でもそう思っていた。それが自分の感情だと思っていた。だが、それはいつの間にか他のものに変わっていたのだ。自分でも気づかないほど微妙に、そして他の者が気づけないほど自然に。



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