春獄の屋敷。
 親子は池に架かる石橋の中程で鯉に餌をやっていた。木の枝がガサッと動いて、キキッと鳴き声がした。親子が見ると、そこには小猿がちょこんと座っている。緋色の紐を首につけていて、親子のほうをジッと見ていた。
「まあ、可愛い。どなたか飼っているのでしょうか」
 手に持っていた餌を橋の上に置いて、親子は小猿のほうに近づいた。とたん、小猿は歯を剥きだして唸る。親子は一瞬ビクッとしたが、すぐにまた近づいた。
「茅野」
 と声がして、小猿はそのほうを向き、嬉しそうにキキッと鳴いた。親子もそちらを向くと、そこにいたのは宮であった。
「宮お兄様。この小猿は宮お兄様が飼っていらっしゃるの? 茅野という名前なのね」
 親子はそう言って茅野のほうに再び近づいた。茅野は、親子のほうを向いて再び唸る。
「親子」
 と宮の声で、親子は足を止めた。
「茅野は私にしか馴れていない。怪我をしたくなかったら、近づかないことだ」
 宮は冷たく言った。親子はニコッと笑って、
「大丈夫よ、宮お兄様」
 と茅野にさらに近づいてしゃがむと、
「茅野、おいで」
 と手を差し出した。茅野は唸っていたが、当惑気味の表情に変えて唸りを止めた。
「ウフフ、茅野、おいで」
 親子は嬉しそうに笑うと再び言った。茅野が足を踏みだそうとした時、
「茅野」
 と宮の鋭い声が響いた。宮はさっさと歩きだしている。茅野は親子を見て、すぐにその宮の後を追い、肩に駆け登った。それを邪険に払われると、茅野は、宮の歩く前に立ち止まって頭を何度も下げていた。宮はその横を歩き去る。茅野はしょぼん、とその場所を動かなかったが、宮の、
「茅野」
 と呼ぶ声にパッと顔を上げて、宮の肩に駆け登り、ちょこんと座った。
「姫宮」
 親子はしゃがんだままそれを見ていたが、呼ばれて振り向いた。石橋の袂にいたのは、唐であった。
「お兄様」
 親子は唐に駆け寄った。そして見上げる。
「お兄様、私、宮お兄様に嫌われているのでしょうか」
 唐は親子の頭を撫でて、優しく微笑む。
「それは違う。茅野が姫宮に馴れたから嫉妬したんだ。実は私には未だに馴れない。嫌っているのなら、江戸まで出てきはしないだろう」
「そうですね」
 と親子は言ったが、心の中は違った。
(確かに江戸にはいらっしゃったけど、それは私のためではないのかも……。もしかして、それはお兄様のため? お兄様の側にいたかったからではないの?)
 親子は、唐と自分が話している時の、宮の視線が痛かった。それはいったいどういう感情で見ているのだろう。
 そして、その視線で木々の間から、宮が二人を見ていた。肩に乗っている茅野が、宮の髪を引っ張って、その気持ちを逸らそうとしていた。宮が茅野に視線を戻すと、茅野が宮の頭を撫でる仕種をした。宮がフッと笑う。
「私を慰めようとでもいうのか、お前は」
 茅野は左手で右手をパシッと叩いて、頭を下げた。宮がまた笑う。
「そんなに卑屈にならなくてもいいさ。さて、ちょっとぶらつくか。お前も行くか?」
 茅野は嬉しそうにキキッと鳴いた。
 やがて、一人と一匹の姿は通りにあった。目立たないとは言えないのは、まずは、宮の美貌、そして肩に乗っている茅野。宮は無表情で歩いているが、茅野は自分たちが注目されているのに気づいてか、愛想を振りまいていた。宮が苦笑して、
「茅野」
 と言いかけた時、
「宮」
 と上から声が降ってきた。宮はそちらのほうを見ることなく、
「お前の食事には少し早いが、まあいいか」
 と呟くと、一軒の小料理屋に入っていった。そして二階に上がって、一番奥の部屋の障子をガラリと開けた。
「兄者、江戸にいつ出てこられた?」
 宮の目の前にいたのは、駄科であった。駄科は箸を置いて、隣を指さした。宮は障子を閉めて座る。そして料理をチラリと見ると、一つの皿を指さして、
「兄者、それを貰ってもいいか」
 と言った。駄科がそれを宮に差し出しながら、
「何だ、腹が減っているのか。何か頼んでもいいぞ」
 と言った。宮がムスッとした顔で皿を受け取りながら、
「私のではない。茅野だ」
 と言って茅野を肩から下ろすと、その前に皿を置いた。茅野が宮を見上げると、宮は頷いた。茅野が食べ始めたのを見て、宮は駄科のほうを見た。
「その小猿はどうしたんだ。宮が飼っているのか?」
「親が死んでしまったからな」
 宮はそう言って駄科をジイッと見る。駄科は宮が動物を飼っているのを別段、不思議には思わなかった。唐が飼っているというのでは、不思議というより不気味だと思っただろうが。双子の上、全く同じような性格をしていた二人なのに、動物たちは、宮にしか馴れなかった。二人が住んでいた山奥では、もちろん、野性の動物しかいなかったから、馴れるほうが珍しかったかもしれないが。駄科でも、馴れる動物は少なかったことを考えると、宮に馴れたほうが不思議と考えなければならないかもしれない。
「兄者、どうして江戸にいる?」
 宮の言葉に、駄科は現実に戻された。宮は鋭い目つきで駄科を見つめている。
「二条様にある方に書状を届けるように言われたからだ。それがすむとすぐに京に戻る。宮が江戸にいるということは、唐もおばばもいるということだな。つまりは、姫宮様も江戸におられるのだな」
 宮はその目に冷たいものを宿らせた。
「兄者、兄者は何者だ? 敵か、味方か」
 駄科は背中をゾクッと震わせた。
「み、宮……何を言っている?」
「親子を探しているのか?」
 宮の右手がスルリと髪を縛っている緋色の紐を解いた。駄科が少し後ろに下がる。
「宮、お前は何か、勘違いしている」
「勘違い? 何を?」
 宮は紐を手でもてあそんでいる。その紐の威力を肌で知っている駄科であった。四年前に駄科の腕を落としたのは、この紐なのだ。ただの紐が、宮の手にかかると鋭い刃物になった。
「判った。私の本名は京極公房という公家の出だ。二条様ももちろん公家。私が宮たちのところへ行ったのは、二条様に言われたからだ。江戸に出てきたのは、姫宮様をお探しするためではない。書状を届けにいくだけだ」
 宮はあいかわらず手で紐をもてあそんでいたが、冷たい気が抜けたのに駄科は気づいた。
「兄者は私たちを育ててくれた……」
 宮は膝の上で眠そうにしている茅野の頭を撫でた。そして茅野を懐に入れると、
「兄者、その書状、どこに届ける?」
 と聞いた。
「老中、本多正重様だ」
 駄科の答に宮は少し首を傾げた。
「宮、お前はまだ私を兄と呼んでくれるのだな」
 駄科の言葉に、宮が一瞬考え込む仕種をして、すぐにニッと笑う。
「別に兄者を兄と思っているわけではない。ただ呼び慣れているだけのことさ」
 と言って、さらに、
「兄者、私たちは春獄殿の屋敷にいる」
 と言うと座敷を出ていった。
「春獄……と言うと、松平慶永様のことだな。だが、どうしてそのお屋敷に?」
 駄科は呟いたが、残った料理を食べ終えると、本多家へと向かったのだった。



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