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新城幸綱は同心部屋の片隅で取調帳を読むふりをしてあくびをした。大きく口を開けたところで、
「新城、ちょっと来い」
と後ろから呼ばれた。慌ててあくびを噛み殺して振り向くと、与力の赤木がいた。
「はい、赤木様」
さっさと歩きだしている赤木の後を、幸綱は慌てて追いかけた。
「これをお奉行のところへ持っていくように」
と廊下を曲がったところで赤木は幸綱に一冊の書類を渡した。は? という顔で幸綱は赤木を見る。わざわざ自分がやるようなことではない。いや、一介の同心が、それも同心になったばかりの自分が会えるような相手ではない。
「さあ、早く持っていけ。粗相のないようにな」
赤木は押しつけるように幸綱の手に書類を渡すと、くるりと背を向けて去っていった。
「あの、赤木様……」
と幸綱は言いかけたが、赤木は立ち止まりはしなかった。しかたなく幸綱は書類を小脇に抱えると奥へと向かった。途中、二、三度、首を振ったのは、何か意味があったのだろうか。それを思うのは、幸綱の額に浮かんだ汗であった。幸綱が立ち止まったのは、目指す部屋の少し前であった。一度深呼吸をして歩きだそうとしたが、すぐにその足を止める。
(お奉行に会うことによって、何かとてつもないことに巻き込まれるのではないか。もう、普通の同心として生きることが出来ないのではないか)
ふと、そんなことを考えた幸綱は、それに関わることに対する高揚感を感じる前に、書類をパッと投げ出した。バサバサバサと書類が斬られて廊下に舞い散った。カシッと刀の打ち合う音がして、幸綱は右手だけで脇差を握っていた。左手は倒れかかる体を支えるために、廊下についている。相手の刀が幸綱の脇差を押さえ込んだ。幸綱は相手が誰なのかを考える暇などなかった。どう考えてもやばい。捨て身でこの場を切り抜けられるか、と思ったところで、相手は付け入る隙を見せずに、スッと幸綱から離れた。
「お見事」
と一言残して、相手はスッと消えた。幸綱はしばらく呆然とその場に座り込んでいた。しばらく、と言ってもそれは僅かな時間だったのだが、幸綱は自失を取り戻して、書類を拾い集めた。そして、立ち上がって、また一つ深呼吸をした。先に進むしかないのだ、それを幸綱は確信していた。
「行こう」
自分に言い聞かせるように幸綱は呟いた。そして目的の部屋の前に座ると、
「新城幸綱です。お奉行、入ってもよろしいですか」
と言った。すぐに、
「入れ」
と声がして、幸綱は障子を開けて、
「赤木様にこの書類をお奉行にお渡しするようにと言われましたので」
と書類を畳の上に置いた。
「少々ばらけておりますが……」
幸綱は恐縮して付け加えた。顔は伏せたままで、部屋にも入っていない。スタスタと足音が近づいて書類を取り上げて、
「確かに少々ばらけておるな」
と声が降ってきた。幸綱はさらに縮こまっていた。クスクスと笑いも降ってきて、
「新城、中へ入って障子を閉めろ」
と声が遠去かりながら言う。幸綱は顔を伏せたまま部屋に入ると、障子を閉めて向き直った。
「新城、もっと近くに座れ。お前の顔を見たいから、面も上げて」
幸綱は言われた通りに少し近づいて顔を上げた。幸綱が石谷忠順の姿を見たのはこれが初めてのことであった。
(まだ、お若い)
忠順を見た幸綱の最初の印象はそれであった。忠順はにこやかに笑って、
「新城、同心の仕事はどうだ?」
と言った。幸綱はは? という顔をしたが、すぐに、
「あの……私はまだ継いだばかりで未だ見習いのようなものです。まだ自分がどうこう言えるような立場ではないと思っております」
と言った。ふむ、と忠順は幸綱を見て、
「ところで、温田重行を知っているか」
と言った。
「はい。幼馴染であり、同僚でもありますが、重行が何か?」
「温田と仲が悪いというのは、本当か?」
「え、重行とですか? それは違います。ただ張り合っているだけですが、その理由までお答えしなければなりませんか」
忠順は首を振って、
「いや、いい。温田も同じことを言った」
と言って奥の部屋との襖を開いた。
「重行」
驚いて幸綱が叫んだ。そこにいたのは、温田重行であった。
「やあ」
重行が幸綱に笑いかけながら、部屋に入ってきて襖を閉めた。そして幸綱の隣に座る。
新城幸綱と温田重行は二十四歳、ともに父親の死をもって同心を継いだ。どちらかと言えば、幸綱はほっそりしていて、重行はがっしりとしている。どちらもそこそこに美丈夫であった。
「新城、温田、お前たちを呼んだのは、頼みたいことがあったからだ。私の個人的な頼みであり、それによって命を落とすようなことがあっても、普通の殉職した同心としての保障しかしてやれない。そんな危険な仕事をやってみたいと思うか」
幸綱と重行は驚いて忠順を見、そして顔を見合わせた。
「それはどんな仕事なのかを聞いてからでは、遅いのでしょうね」
重行が言った。
「お奉行、先程の男は、つまりは私の腕を見るためだった、ということですね。そして私たちはお眼鏡に叶った」
幸綱の言葉に忠順は頷いて、
「二人とも、石和の思った通りの腕前だったようだな」
と言った。幸綱が少し膝を進めた。
「私はやらせていただきます。先程心のうちに沸き起こった高揚感を忘れられません。私だけでもやらせてください」
重行が苦笑しながら、
「いつも、幸綱には言う先を越されるのですが、私もやらせていただきます」
と言った。忠順は二人を代わる代わる見て、
「楽な仕事ではないぞ」
と真剣な顔で言った。二人は首を振った。
「判っております。ですが、どんなことでも楽をするより、やりがいのあることをしたいと思います」
幸綱がそう言ってニッと笑った。重行も幸綱と同じように笑う。忠順は頷いて、
「石和」
と呼んだ。襖が開いて石和が入ってくる。二人は先程の男だったとその時初めて思った。
「詳しいことは石和から話すことになる。新城、温田、期待しているぞ」
忠順の言葉に、幸綱と重行はハッと頭を下げた。
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