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忠順は本多家よりまっすぐに自宅に戻っていた。それをまず迎えたのは、与力の赤木であった。
「お奉行、お帰りなさいませ」
忠順はうむ、と小さく頷いた。歩いていく忠順に少し遅れて歩きながら、赤木は書類の束を差し出した。
「こちらが本日終了したものです。こちらは未決済のものでございます。目を通しておいてください」
忠順は立ち止まって赤木から書類を受け取った。
「赤木、別に私の帰りを待つことはない。机の上に置いておけばよい」
「いいえ、これが私の仕事ですので。それでは失礼いたします」
「ごくろう」
忠順は赤木の歩き去る後ろ姿を見ながら、ふうっと溜め息をついた。別に赤木の仕事ぶりが気に入らないわけではなく、あまりにも実直過ぎるその性格に、もう少し気を抜いてもいいのに、と思うのであった。
「だが、しょせん、私と彼らは一時の主従でしかない」
忠順は呟いて私室へと向かった。
町奉行と与力、同心との関係は、確かにその言葉通りの意味しかない。奉行とは出世の階段の一段でしかない。与力や同心のように親の跡を継ぐわけではないのだ。そして忠順はまだ奉行になったばかりで、互いに探り合いの状態であったのだ。
忠順は書類の束を文机の上に置いてどかっと座った。悩んでいるのは、別に赤木のことではない。本多正重の言ったことについてであった。正重が本当の父親であることは、忠順は父、忠輝の死の床で聞いた。
「え、私は父上の本当の子供ではないのですか。母上の不義の子だったのですか」
父と信じていた人の死の床で、その口から衝撃の事実を教えられた忠順はこの時、十五歳であった。忠輝は忠順の頬をその手でそっと撫でた。
「わしには子が作れなかった。奥もそれを知らなかった。子供が持てないはずのわしに、神はお前のような利発な子を与えてくださったのだ。お前は正真正銘、わしの子じゃ」
「父上、私にとっても、父と呼べるのは、あなただけです。私は石谷忠輝の子であることを誇りに思っております」
忠輝は嬉しそうに笑った。
「忠順、誰も恨むではないぞ。母親も本当の父親も、恨まないことだ。わしには出来ないことを、本当の父親は与えてくれるだろう。お前はそれを拒否せずに利用することだ。お前にはそれを与えられても活かせるほどの才能がある。それを宝の持ち腐れにすることなく、生きていきなさい」
忠順はただ忠輝を見つめていた。忠輝は優しい微笑みで、忠順を包んでいる。
「わしに出来ることは、お前をずっと見守っていくことだけだ。でも、もし、お前がすべてを拒否しても、わしはお前を責めたりはしないから」
「父上……私は……」
忠順がそれ以上何も言えずに忠輝を見ていると、忠輝は忠順の右手をギュッと握った。
「大事な、わしの息子じゃ。わしの自慢の息子が幕政を担う一人になることを、わしは楽しみにしておる」
忠輝の忠順の手を握っていた力がフッと緩んだ。ハッとして忠順は忠輝を見直す。忠輝は微笑んだまま彼岸へと旅立っていた。
その後、石谷家を忠順は継ぎ、間もなく目付の職につく。そしてその後も着々と出世を重ね、今、町奉行の職についているのであった。
そして、今夜初めて顔を合わせて話をした実の親子であったのだ。
「いったい、あの男が何を知っているというのだ」
忠順は昔の思い出を脳裏から振り払った。
「あのことを……知っているとでも言うのか」
忠順は拳を握り締めた。それを正重が知っているはずなどないのだ。知っているのは、当事者である自分たちと、あの老婆と。
「だが、本当に知っていたとしたら」
ゾクッと忠順は背を震わせた。その時、隣部屋から声がした。
「殿、よろしいですか」
忠順は表情を改めてそちらのほうを向いた。
「いいぞ」
襖がスッと開く。そこに座っているのは、同心姿の男。だが同心の一人ではなく、忠順の子飼い、石和であった。
「石和、使えそうな者はいたか」
石和は部屋の中に入ると襖を閉めて、忠順のほうに向き直った。
「はい、二人ほど。どちらも二十四歳の若者ですが、腕は確かなようです。ただ、二人の仲が悪いとの噂がございました」
石和はそう淡々と告げた。忠順は目を伏せた。
「まさか、すぐに使うことになるとは思わなかったな。だが、これもしかたがない」
「殿」
石和が忠順のほうへと少し膝を進めた。忠順が顔を上げた。
「石和、その二人の名は?」
「新城幸綱、温田重行」
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