夜に酒を飲むのは、今も昔もよく見られる光景だが、そこにも酒席が設けられていた。旨そうに飲んでいるのは、その中の二人で、あと一人はむっつりとした表情で黙々と杯を空けていた。
 足音が近づいてきて、ガラリと障子が開く。入ってきたのは、この屋敷の主人である本多正重であった。正重は老中の一人である。中にいた三人は杯を置いて正重に軽く頭を下げた。酒井忠民は若年寄、越前屋甚三は町人であった。一人若いのは石谷忠順、町奉行であった。
「本多様」
 ススッと越前屋が銚子を持って進む。正重の杯に酒を注ぎながら、
「何でございますなあ。桜も終わりましたのに、まだ寒うございますな」
 と言う。正重がぐいっと飲み干すと、越前屋はすぐにそれを満たす。
「本多様、琴姫様のご婚礼がお決まりになりましたこと、おめでとうございます。これはささやかでございますが、お祝いの品でございます」
 そう言って越前屋は後ろに置いていた包みをスッと差し出した。正重は中身を見ようとはせずに自分の後ろに置いた。
「ご婚礼の前に京の絵師に作らせております着物を差し上げることが出来ると思います」
「そうか」
 と正重は笑った。琴は正重の息子、正智の一人娘であった。この時代の女性が嫁ぐにしては、少々遅いのだが、これは正重が中々手放そうとしなかったからであって、それほど正重はこの孫娘を可愛がっていたのである。
「さて、今日呼んだのは少し調べてもらいたいことがあってな」
 と正重は杯を持ったままぐるりと見回した。
「わしらの手を借りなければならないほどの重要事ですか。それはよほどのことですね、本多殿」
 忠民が面白そうに言う。
「一人、始末したい者がおってな。その人物が今どこにいるのかを調べて欲しいと思っておる」
「始末ですか。いったい誰を? 大名、旗本、それともどこかの浪人ですかな」
 フフフと正重は笑った。
「それのどれでもない。皇女じゃ」
 パキリと音がしたほうに六つの視線が集まった。注目を浴びた人物は割れた杯を膳の上に置くと、懐紙で手を拭きながら、
「失礼いたしました。とんだ不調法をいたしました」
 と頭を下げた。それは忠順であった。
「いやいや、石谷様が驚かれるのは無理もないことです。本多様、それは本気でございますか。皇女とはいったい……」
 越前屋の言葉で忠順は注目の的から外れた。
「わしは本気じゃ」
 おやおや、という表情を越前屋は一瞬浮かべた。
「しかし、皇女と言われましても、どのお方なのでしょう?」
「上様に降嫁するという皇女のことだ」
「ほう」
 と忠民は正重を見つめる。
「公部合体などとほざいている奴らに目に物見せてやる。皇女が殺されれば、それを再び言いだす者などいなくなるだろう。幕府のためにはそれがいいのだ。皇女を降嫁させることで、幕府の土台を揺るがすことは許せん」
「しかし、皇女は京におるのではないですか。それを探し出すとはいったいどういうことなのでしょう」
 忠民の言葉に正重は笑った。
「皇女は京にはおらぬ。まだ誰も皇女がどこにいるのかを見つけてはおらぬ。安藤でさえな」
「老中筆頭の安藤様ですか」
 越前屋がチロリと正重を横目で見た。
「本多様」
 一人新しい杯を黙々と口に運んでいた忠順が口を開いた。
「公部合体など本多様には意味がないのではありませんか。それを理由にするのは本当は建前。ただ単にあなたは皇女を亡き者にしたいだけなのでしょう、元京都所司代の本多様?」
 正重が気にした風でもなく笑った。
「それでお前は皇女を殺したくない、と言いたいのだな」
「私が言いたいのは、本多様が私怨で皇女を殺そうとなさっているのではないか、と言うことです。公部合体は安藤様が計画なされたこと。それを阻もうとするのは、本多様には政敵を追い落とそうとする必要があるからでしょう。だが、公部合体を成功させることは、安藤様だけのためになるわけではありません。幕府のためにはこれは必要なことではありませんか。確かに皇女が殺されれば、他の者をあてがうことはないでしょう。ですがその後に出てくるのは、さて倒幕派でしょうか、佐幕派でしょうか。本多様が何をなさろうとも構いません。がこれは、幕府の土台が腐りきっていることに気づいた誰かの考えかもしれません。いえ、これは私の勝手な考えですが」
 忠順はそう淡々と言うと、再び黙々と杯を重ねていった。正重は少しの間忠順を見つめて、他の二人に視線を戻した。別に怒っている風には見えない。
「さて、石谷は別として、お前たちは何か言いたいことがあるか?」
 問いではあるが、それは拒否することの出来ない強制であった。だが、二人は別段それを強制とは思わずに首を横に振った。面白そうではないか、と言うのが二人に共通した感情であって、それ以外は全く異なった感情を持っていたのだが、それを表に現すような二人ではなかった。
「それでは」
 と言って忠民と越前屋は正重の前を辞した。忠順も続けて席を立とうとしたが、正重に呼び止められた。
「石谷、その傷の手当てをしていけ」
 と言って正重はパンパンと手を叩いた。すぐに女がやってきて、忠順の手の治療をする。その間、誰も何も言わなかった。
「それでは失礼いたします」
 女が出ていくと、忠順もさっさと出ていこうとした。それを正重は呼び止めた。
「そう急いで帰らなくともいいではないか。少し話をしていかないか、忠順」
 忠順がキッと正重を見る。
「その名を呼んで欲しくありませんね、本多様。特にあなたには」
 正重がカラカラと笑った。
「忠順、お前はわしの息子ではないか」
「私の父親は石谷忠輝だけです」
 忠順は立ったままであった。
「先程はずいぶん青ざめておったな」
「何のことです?」
 忠順は無表情を装って正重を見つめた。正重は面白そうに笑う。
「まあよい。帰ってよいぞ、石谷」
 忠順はいちおう正重に頭を下げると本多家を辞した。
 正重は一人、部屋の中で腕組みをした。そして何か考え込んでいたが、パンパンと手を叩いて、すぐにやってきた女に酒席を片づけるように言うと、立ち上がって私室に戻っていった。
「いったい、どこに潜り込んでいるんだ、あの餓鬼は……」
 正重はブツブツと呟いた。そしてニヤリと笑う。
「まあ、どこにいようとも、すぐに見つけてみせる。そして積年の恨みを晴らしてやる」
 正重の声が低く響いた。その顔に浮かんだ表情が消えて、足音が近づいてきて障子が開いた時には、すでに好好爺になっていた。入ってきたのは、孫娘琴姫であった。豊かな黒髪は今は結わずにすべらかしにしている。
「お祖父様、お邪魔でした?」
 僅かに首を傾げて琴姫は言った。少しふっくらとしている姿は、可愛らしい。正重の相好が崩れて甘い笑顔になった。
「お琴、お前を邪魔など思ったことなどないぞ。お前が嫁に行ってしまう日が日に日に近づくのが、それはそれは哀しい」
 琴姫が正重の腕を抱き締めた。
「お祖父様、琴はお嫁に行っても毎日お祖父様のお顔を見に帰ってまいりますわ。ですから、哀しまないでくださいね」
 正重は琴姫の黒髪を撫でる。
「綺麗な黒髪じゃ。誰にも誇れるものをお前は持っている。お前はわしの自慢の孫じゃ」
「私も自分の黒髪が自慢ですわ。それとお祖父様と。この二つが私の好きなものですわ」
 正重が嬉しそうに笑う。琴姫と接している時の正重は、他の人との接し方とは全く異なっている。それほどに正重にとって、琴姫は大事な孫娘であったのだ。
 本多正重には一人息子に一人の孫娘しかいないことになっていた。だが、正重にはもう一人息子がいたのだ。それは石谷忠順であった。忠順の母親、菊は正重とは幼馴染であった。それがその域を越えるまで二人にとっては、難しいことではなかったのだ。そして、二人とも互いに伴侶を迎えた後もその関係を続けていたのだ。



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