春獄の屋敷とはあまり離れていない場所に、その屋敷はあった。広さはこちらのほうが狭い。表札には安藤、と書かれていた。安藤信睦、それがこの屋敷の主人の名前であった。
 ポン、と煙管の灰を落として、信睦は煙管を静かに置いた。その顔色はあまりよくない。胃を痛くする原因はたった一つ。
「いったい、どこにおられるのだ」
 苛立たしげに信睦は言った。部屋の中には他には誰もいない。だが、声がしてきた。
「ただいま総力を上げてお探ししております。申し訳ございません」
 天井からともなく、隣部屋ともなく、その声は聞こえてきた。信睦は眉をしかめる。
「殿、京には確かにおられませんでした。やはり、江戸に来ておられる、と考えるのが適当だと思いますが……」
 信睦は腰に差していた扇子を拡げた。枯れ葉に鈴虫の柄であった。季節を無視しているが、信睦はそれが気に入っているのだ。その扇子を拡げたりたたんだりしている。考え事をしている時の信睦の癖であった。
「殿、さらわれたとは考えられません。あの方はご自分から江戸に来られたような気がします。その理由までは判りませんが」
 声は信睦の考えを妨げないように静かに響いた。信睦はパチンと音を立てて扇子をたたんだ。
「その理由……か」
 それは十四代に降嫁したくない、という態度の現れなのだろうか、と信睦は思ったが、すぐにその考えを捨てた。親子に信睦は会ったことはない。だが、親子を見てきた者の報告で想像する人物像では、それをしないと思った。私情で行動を起こすのではなく、それよりむしろ、私を押し殺して行動するように感じた。それならば、この失踪には何か意味があるのだ。信睦はその意味を考えなければならない。公部合体を成功させるには、親子が絶対に必要なのだ。他の皇女では意味がない。そんな風に信睦は考えていた。これを成功させなければ、自分が老中筆頭であり続けることが出来ない、それも事実なのだ。
「どなたがお匿いになられているのでしょう。まさか、市中におられるとも考えられませんし。京に好意を持っていらっしゃる方々のお屋敷は、ほとんど見て回りましたが、どこにもおられませんでした。……もう、どこにもおられないのかもしれません」
「明石!」
 と信睦は鋭い口調で言った。
「滅多なことを口にするな。お前の役目は考えることではなく、私の命令を忠実に従うことだ。そうだな、明石」
 どこからともなく響く声は、一瞬黙り込んで、そして答えた。
「その通りでございました。申し訳ございません」
「そう思っているのなら、私が満足出来るだけの報告を持ってこい」
 信睦はまたパチリと扇子を鳴らした。そして声の気配が消えたのに気づいた。
「幕府のためには、絶対に公部合体を成功させなければならないのだ。上様に皇女を降嫁させなければならないのだ」
 信睦は胃を押さえながら呟いた。



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