その夜、春獄の屋敷では、密やかにささやかな晩餐が開かれていた。この屋敷の主人、春獄と親子、沢渡、宮、唐はもちろんのこと、もう一人招かれたのが、一橋慶喜であった。慶喜はこの五年後に十五代として将軍となるのだが、それはまだ先の話。
 親子と慶喜は初対面ではなく、時折気さくに話をしている。沢渡と唐も、春獄や他の二人の話の輪に入っていた。一人、ほとんど喋りもせずに黙々と杯を重ねているのは、宮であった。その目はとりあえず部屋の住人を一通り眺めた後、慶喜に止まった。
(一橋慶喜……か。十四代と将軍の座を争って負けた。そして親子は十四代に降嫁することが決まっている。それがこんなところで一緒にいるとは、おかしなものだ)
 宮の目が唐に移って、一瞬、表情を動かしかけたが、それは誰にも見ることが叶わなかった。
(四年前におばばが、唐だけを親子に会わせたかったのは……)
 その理由が宮にはまだ判らない。だが、もうそれは過去のことだ。回ってしまった紡ぎ車は未来にしか回せないのだ。
 ふと、沢渡の目に哀れみが浮かぶ。それも誰にも気づかれないうちに消えてしまった。

 すべてはこれから始まるのだ。彼らはみな、同じ目標に向かって歩いていた。だが、その道が重なっていなかっただけなのだ。それだけのことが、彼らにとって生涯忘れえぬ哀しみを持ち続けることになった。今の彼らの心のうちにあるのは、すべてを冷やかにしか映せない瞳、何もかもを委ねられる幸せ、ただ一人の人を守ることの充実感、これから起こるかもしれないことへの不安、ほのかな恋心の芽生え、未来の見えることへの苛立ちと苦しみ。彼らの心のうちは、これから先の数ヶ月のうちに変化をとげる。そして、それはここにいる誰もが予想もしなかった結果を生み出すのだ。
 だが、今はただ、この江戸に彼らが集まったことだけを真実として語ることしか出来ない。そして、もう数人の登場によって物語の歯車は嵌まることになる。その歯車の一部だけが嵌まった音を聞いたのは、この時は沢渡だけだったのかもしれない。
 文久元年、四月。
 その夜は静かに更けていった。



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