親子は春獄の屋敷の、沢渡の部屋の近くに部屋を与えられていた。沢渡と別れた後、夕食までの一時を親子はその部屋で過ごしていた。春獄がお暇な時に、と置いていった絵物語を読んでいた親子はおや、と顔を上げた。首を傾げて、
「誰かいるの?」
 と言った。返事はない。親子は少し考え込んでいたが、すぐに顔を上げて、
「幟子様?」
 と言った。だが、返事がない。
「風を燻らせるのは、幟子様ですね」
 今度は確信を持った口調で親子は言った。スウッと隣部屋との襖が開いて、頭を下げたままの幟子がそこにいた。
「お久しぶりでございます、姫宮様。よく、私とお判りになられましたね」
 親子がパッと立って幟子のほうに駆けていった。
「あら、だって、風の香りがしたから。風は幟子様だけのお香ですものね。私の大好きな香りですもの」
 膝が突き合わせられるほど近くに親子は座り、いつものことながら幟子は少しドギマギしていた。
「私を探していました?」
 親子が覗き込むように幟子を見る。
「もちろんです。上も兄上もみな、心配しておりました。何も言われないままに京から姿を消されたので。私と一緒に戻ってはいただけませんか、姫宮様」
 親子が首を傾げる。その動作が何とも可愛らしくて幟子は幸せだった。幟子が守りたいのは、親子だけ。親子に初めて会った時から、その思いは続いていた。兄に嫁ぐことがなくなった今でも、それは変わらないのだ。
「幟子様のお気持ちは本当に嬉しいです。でも、私は今ここにいなければならないから。それが終わったら、必ず京へ戻りますわ。私には強い味方がいますから」
 とニコッと笑った。
「それは先程おばば様のところで出会った宮様と唐様のことですか?」
 親子の顔がパッと明るくなった。
「お会いになったの? ではいらしてくださったのですね」
 幟子は不審そうに親子を見た。
「あの、姫宮様、あのお二方はどなたなのですか」
 親子が顎に手を当てて幟子を見た。
「上も熾仁様もご存知ないと思います。私も四年前におばば様から初めて聞かされたのですから。あの方たちは本来いないはずの人間。表向きではそうなっていますから。だから幟子様、もし、上や熾仁様に内緒に出来ないのでしたら、あの方たちの素性を教えるわけにはいきませんわ」
 幟子は真剣な表情で親子を見つめていた。それほどに彼らは秘かな存在だったのか。
「姫宮様、私はすぐに京へ戻ります。おばば様にそう言われましたから。本当ならば、姫宮様をお連れして戻るつもりでしたが、姫宮様が江戸に残られるおつもりと判りましたので、一人で戻ります。あのお二方には私はお会いしなかった、と思うことにしましょう」
 親子はハタと幟子を見つめる。
「判りました」
 親子はそう言ってその表情を微笑みに変えた。
「上にも熾仁様にも心配なさらないように、と伝えておいてください。幟子様、お会い出来て嬉しかったですわ。会いにきてくださってありがとう。もう、私のために危険な真似をしないようにしてください。それはもう必要ないことですから。宮家の姫として生きてくださることを、親子は望んでいますわ」
「姫宮様……」
 幟子は頭を深く下げた。親子には言えるはずがない。上も兄も幟子に親子を守れとは言わなかったとは。親子は幟子がそう言われたから江戸に来たと思っているのだ。それなのにどうして親子に本当のことを伝えられよう。
「京でお待ちしております。おばば様もあのお二方とも、京で再会出来ることを楽しみにしています」
 頭を下げたまま幟子は言った。だから、親子の顔に一瞬複雑な表情が浮かんだことには気づかない。幟子が顔を上げた時には、すでにその表情は消えていた。
「幟子様、ごきげんよう」
 親子がそう言ってにっこりと微笑んだ。幟子も微笑んでそして少し下がって襖を閉めた。そのまま幟子は京へと戻るべく屋敷から抜け出していた。
(あの二人はいったい何者なのだろうか)
 幟子は親子には聞かなかったとはいえ、気になってしかたがなかった。だが、再び彼らの前に姿を現すわけにもいかず、そのまま屋敷から遠去かる。
(姫宮様が彼らに関わることによって、何も哀しみませんように)
 そんなことが起こると幟子に判っていたわけではない。だが、幟子はその時そう思った。そして、近い将来に親子が京へ戻った時、沢渡以外の彼らは親子の側にはいなかった。それまでに彼らの一人に京で出会った幟子だったが、それ以後に幟子は彼らに出会うことはなかったのである。



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