そして沢渡が入っていったのは、庭に面した六畳ほどの部屋。半双の白鳥を描いた屏風と行燈、それだけしかなかった。沢渡は障子を閉めると、部屋の中程に座って懐から歌留多を取り出した。そして畳の上にパラパラと零した。それを集めてはまた零す。それを何度も繰り返す。その目をフイッと屏風のほうに向けたのは、どれだけ時が経った頃であろうか。
「誰じゃな」
 沢渡はそう言って、ふと表情を緩めた。
「幟子様、お久しぶりでございますな。そのようなところからお入りになられるとは、また腕を上げられたようで」
 屏風の横からスッと姿を現したのは、その通り幟子であった。髪は短く、着物の裾は膝までしかない。帯の後ろに挟んでいるのは笛。
「おばば様、私とよくお判りになられましたね」
 幟子は沢渡の前に座った。沢渡が幟子を指さす。
「風じゃ。白檀と安息香などの何種かの香料で創り上げた幟子様のお香でございましたな。風と名づけたのは、確か姫宮様じゃった」
 幟子がフフッと笑った。
「おばば様にはよく言われましたわ。このようなことをするならば、匂いは命取りになると」
「判っておられるのならばいいのじゃ。なのにそれを守ろうとはなさらない?」
 幟子が首を傾げた。
「私のこだわりだと思ってください。お香を燻らせるのは、宮人としての私の性ですわ。ごめんなさい、おばば様」
 沢渡がやれやれと首を振った。
「それで、江戸に来られたのは、兄上様に言われたからですかな」
 幟子は目を伏せた。沢渡はおやっという顔で幟子を見つめる。
「兄上様も上も、私に江戸に行けとはおっしゃいました。ですが、何もするなと、ただ見ているだけでいいとおっしゃったのです。おばば様、そんなこと私には出来ません。もし、あの方が危険にさらされるようなことになったら、私は絶対にあの方をお守りしますわ」
 沢渡はふむ、と頷いた。
「そうか、何もするなとな。幟子様、わしも同じことを言ってもよろしいかな」
「おばば様!」
 幟子が鋭い目つきで沢渡を見た。
「幟子様、それには理由がある。幟子様は京へお戻りなされたほうがよろしい。幟子様のなさることは、江戸では何もないぞ」
 幟子が不審そうに沢渡を見つめる。
「姫宮様はわしらが必ず京へ送り届けよう。だから、幟子様は京で姫宮様のお帰りをお待ちするように」
「でも、私は」
 沢渡が首を振った。
「幟子様、仮にも宮家の方が忍びのような真似事をするものではない。わしは少々後悔しておるのじゃ。幟子様に天稟があったとしても、宮家の方にこのような真似をさせるなど」
「おばば様のせいではありませんわ。私が望んで教えていただいたことですわ。私はあの方が好きですから。兄上様に嫁がれるのを本当に楽しみにしていたのですわ。それが他の方に嫁がれることになったとしても、私はずっとあの方をお守りしたいと思っていますわ」
「幟子様……ならば、やはり、京へお戻りになったほうがいいな」
 沢渡がそう言ってフイッと屏風のほうを見た。
「宮様、唐様」
 幟子がハッとして後ろを見る。そこに現れたのは、宮と唐。幟子は全くその気配に気づかなかった。
「よく、この屋敷がお判りになられたな」
「昔、この屋敷の主人の名をおばばから聞いたことがあった」
 と唐が答えて座った。宮は黙ってその近くに座る。目は幟子に向いていた。
「幟子様じゃ。幟子様、こちらが宮様と唐様」
 幟子は呆然と二人を見つめていた。その美貌にと冷たい気の漂っている感じに。宮の目が冷たく幟子を射ぬく。
「幟子様、京にお帰りになりますな」
 沢渡の言葉に、幟子は頷いた。沢渡の言ったわしら、と言うのは、きっとこの二人も含まれているのだろう、と思った。彼らが沢渡のどういう知り合いなのか判らない。だが、幟子は怖かった。ただ、怖かったのだ。研ぎ澄まされた刃物のような感触を二人から受け、それから逃げだしたかった。彼らが親子を守れないわけはない、それは判った。だが、彼らによって傷つけられないとそれは言えないだろうか。幟子は沢渡にそれを問いただしたかった。彼らがいったい何者なのか。だが、何も言えなかった。
「一度、姫宮様にお会いして行くがよい」
 沢渡がそう言って幟子を促した。幟子は、
「判りました」
 とどうにか口にすると部屋から出ていった。そうするより他に道はない。幟子は沢渡の言う通りに、親子に会ったらすぐに京に戻ろうと思った。
 さて、部屋に残った三人のうち、まず口を開いたのは唐であった。
「おばば、今の幟子という女は何者だ?」
 宮は黙って沢渡を見つめる。聞きたいことは同じことだと、その目が語っていた。
「姫宮様が十四代に降嫁されることにならなければ、幟子様は姫宮様の義理の姉上になられていた。幟子様の兄上、熾仁様が姫宮様と婚約しておられたからな」
「すると、有栖川宮の姫というわけか。おかしなものだな、おばば。宮家の姫が忍びの真似事をするとは。中途半端にやらせると、取り返しのつかないことになるぞ」
「それは判っておる、唐様。だから京へ戻るようにと言っておったのじゃ」
 宮がふと目を閉じて、
「よい香りだ」
 と呟いた。沢渡と唐は宮のほうに驚いた顔を向けたが、二人が何か言う前に外で春雷が鳴り響いた。
「春の嵐か」
 再び宮が呟いて目を開いた。
「おばば、何が起こる? それとも、何を起こす?」
「さて、何であろうかな……」
 沢渡がそう言って畳の上にばらまいたままの歌留多を拾い集めて懐にしまった。
「何が起ころうとも、私が姫宮を守ってみせる」
 唐がそう言って笑った。沢渡は頷いて、宮は冷たく唐を見つめていた。



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